姨捨山人 さん
姨捨山人さんの投稿
ゆっ~くり道草北國街道を歩く-6
本町交差点を左の角には「元大塚酒店」。大塚酒造小売り部の酒店で「角の大塚」と呼ばれていました。今でも、酒の看板が何枚も並んでいます。

得意な道草が始まります。交差点をまっすぐ進めば北國街道を外れないのにわざわざ、角を左に曲がり少し行くと小さな路地へ入ります。通称『藤村の散歩道』(馬場裏)を進むと「大塚酒造」があり資料館も併設されています。車ですので試飲は出来ません。「浅間嶽」名で大吟醸から本醸造まで、米焼酎から蕎麦焼酎まで「浅間嶽」一本の凝りようです。


素通りです。少し広い道(左へ行くとそば七)横切った先に「藤村の井戸」があります。
少し、藤村が小諸で過ごした「7年間」を書いてみます。興味のない方は飛ばしてください。
明治32年小諸義塾の教師として小諸に暮らした藤村夫妻が毎日水を汲みに来ていた井戸です。その頃はロープと桶で汲む釣瓶だったそうです。
『信州の小諸で暮らした七年間のことを考えてみても、先ず自分の胸に浮かんでくるのは、あの小諸の住居の近くにあった井戸です』と、書いています。
お嬢さん育ちの冬子夫人がてぬぐいを頭にかぶり着物を尻っぱしょり、手桶をさげて持ち帰る姿を近所の人は毎日見ていました。冬子さんも近所の人と井戸端会議の輪に入っていたという事です。
藤村はこの場所のことを次のように文章にしています。
『夜の九時過に、馬場裏の提灯は未だ宵の口のように光った。組合の人達は、仕立て屋や質屋の前あたりに集まって涼みがてら祭りの噂をした。この夜は星の姿を見ることが出来なかった。蛍は暗い流れの方から迷ってきて、町中(まちなか)を飛んで、青い美しい光を放った』(千曲川スケッチより)

小道を少したどると「藤村旧栖の地」(ツタの絡まった建物は無関係)冬子と結婚し、馬場裏の士族屋敷跡で棟続きの草ぶき平屋建で、南側に主婦部屋、茶の間、台所。北に「」書斎、書生部屋、納戸物置と続いていた。
近隣との交際も深くその婦人たちがここで生まれた三人の子女の出産を手伝った。
今この屋敷跡に有島生馬氏の筆で「藤村舊栖地」の碑が建てられている

『藤村の散歩道』の出口は「海應院」近く、これから本町を再び北上し、本町交差点を市町へと進みます(ぐるっと一回りしました)
このエリアには懐古園、大手門、本陣母屋がありますが昨年の秋に紹介済みですので割愛して街道周りを紹介して先に進みます。
本町交差点を直進するとすぐ右側に「鍋蓋(なべぶた)」城跡。この一画は、戦国時代に作られた小諸の最初の平山城の跡。江戸時代は家老の屋敷で、両側に町人地との境の木戸があったそうです。街道に入りにくくした構造は城下町ならでは。昭和になって城跡を突っ切って道を通しました。

小さな十字路を右折して奥まったところに「養蓮寺」があります。小諸の城下町が出来始め(1493年)に開かれた浄土真宗のお寺。この寺には雷電為右衛門が大関に昇進した時に寄進した「袂(たもと)鐘」(高さ40cm)があります。雷電が「江戸から袂に入れて運んできましたわい」といったことから住職が「それならば、その名をいただこう」と命名しました。(一般公開は限定)
鐘の上部には龍が踊り下帯は土俵の“俵”四本柱は四面に区切り、正面には南無阿弥陀仏、側面には蜀山人による署名入りの銘文が刻まれているそうです。

又、街道に戻り、少し行った右手に「くめや(粂屋)」江戸時代に建てられた脇本陣です。本陣に次ぐ格式の高い宿が脇本陣。ここ粂屋には、加賀藩の家臣が宿としていたことを記した宿札が残っています。


また少し行くと「山謙酒造」江戸中期創業の蔵元を引き継いで山謙酒造として始業したのは明治末期。三角屋根の外観が印象的な建物で昔のままの広い土間があり通り土間は裏道まで続いています。破風にある虫籠窓(むしこまど)も魅力的です。路地を挟んで大きな酒蔵は今は使っていません。「姫百合」がブランド名です。

市町の最後は「小諸宿問屋場」(国の重要文化財)。問屋場とは、宿場を通る荷物をリレーし、人や馬を手配していた公的施設。これは江戸後期の建物で、全国的にも例を見ない立派な問屋場です。破風にある小屋根の庵看板風なものは何でしょう?

一気にくねくねした街道を千曲川方面に下ります。1km先に「布引観音」と北國街道の分岐があります。山道を登り観音様に無事を祈った旅人も居たのだと思います。右の真直ぐな方面が北國街道。手前を左に行くと「布引観音」。

又くだらない「布引縁起」。昔信心のうすい老婆が千曲川で布を晒していたところ突然牛が布を角に引っ掛けて走り出しました。老婆は驚いて野を越え山を越えて牛を追いかけましたが気が付いて見ると善光寺まで来てしまい金堂あたりで牛は消えてしまいました。日も暮れる頃、どこからともなく一条の光明が差し、その霊光の尊さに思わずひざまづいて菩提心を起こし、一夜を金堂ですごし罪悪を詫び家に帰ってきました。
ある日ふと布引山を見ると岩角に布が吹き付けられていました。何とか布を取ろうとしていたところ布と共に石と化してしまいました。今も岩肌に白い布の形をした岩肌が見られます。『牛にひかれて善光寺参り』はここから来ています。
正式名称は、天台宗布引山釈尊寺 写真は断崖絶壁にかかる観音堂(重文)に安置されているのが「布引観音様」

2019年5月3日コモロスミレを見たついでに登った時の写真です。何時か紹介します。
小諸市3つ目の青木(新町)の一里塚を目指します。
布引観音の分岐点に車を止め歩き出しましたが、周りは冬枯れの田圃の風景のみ。こんなつもりじゃなかったがなかなか見つかりません。何人かの人に聞きやっと「青木の一里塚」にたどり着きました。
得意な道草が始まります。交差点をまっすぐ進めば北國街道を外れないのにわざわざ、角を左に曲がり少し行くと小さな路地へ入ります。通称『藤村の散歩道』(馬場裏)を進むと「大塚酒造」があり資料館も併設されています。車ですので試飲は出来ません。「浅間嶽」名で大吟醸から本醸造まで、米焼酎から蕎麦焼酎まで「浅間嶽」一本の凝りようです。
素通りです。少し広い道(左へ行くとそば七)横切った先に「藤村の井戸」があります。
少し、藤村が小諸で過ごした「7年間」を書いてみます。興味のない方は飛ばしてください。
明治32年小諸義塾の教師として小諸に暮らした藤村夫妻が毎日水を汲みに来ていた井戸です。その頃はロープと桶で汲む釣瓶だったそうです。
『信州の小諸で暮らした七年間のことを考えてみても、先ず自分の胸に浮かんでくるのは、あの小諸の住居の近くにあった井戸です』と、書いています。
お嬢さん育ちの冬子夫人がてぬぐいを頭にかぶり着物を尻っぱしょり、手桶をさげて持ち帰る姿を近所の人は毎日見ていました。冬子さんも近所の人と井戸端会議の輪に入っていたという事です。
藤村はこの場所のことを次のように文章にしています。
『夜の九時過に、馬場裏の提灯は未だ宵の口のように光った。組合の人達は、仕立て屋や質屋の前あたりに集まって涼みがてら祭りの噂をした。この夜は星の姿を見ることが出来なかった。蛍は暗い流れの方から迷ってきて、町中(まちなか)を飛んで、青い美しい光を放った』(千曲川スケッチより)
小道を少したどると「藤村旧栖の地」(ツタの絡まった建物は無関係)冬子と結婚し、馬場裏の士族屋敷跡で棟続きの草ぶき平屋建で、南側に主婦部屋、茶の間、台所。北に「」書斎、書生部屋、納戸物置と続いていた。
近隣との交際も深くその婦人たちがここで生まれた三人の子女の出産を手伝った。
今この屋敷跡に有島生馬氏の筆で「藤村舊栖地」の碑が建てられている
『藤村の散歩道』の出口は「海應院」近く、これから本町を再び北上し、本町交差点を市町へと進みます(ぐるっと一回りしました)
このエリアには懐古園、大手門、本陣母屋がありますが昨年の秋に紹介済みですので割愛して街道周りを紹介して先に進みます。
本町交差点を直進するとすぐ右側に「鍋蓋(なべぶた)」城跡。この一画は、戦国時代に作られた小諸の最初の平山城の跡。江戸時代は家老の屋敷で、両側に町人地との境の木戸があったそうです。街道に入りにくくした構造は城下町ならでは。昭和になって城跡を突っ切って道を通しました。
小さな十字路を右折して奥まったところに「養蓮寺」があります。小諸の城下町が出来始め(1493年)に開かれた浄土真宗のお寺。この寺には雷電為右衛門が大関に昇進した時に寄進した「袂(たもと)鐘」(高さ40cm)があります。雷電が「江戸から袂に入れて運んできましたわい」といったことから住職が「それならば、その名をいただこう」と命名しました。(一般公開は限定)
鐘の上部には龍が踊り下帯は土俵の“俵”四本柱は四面に区切り、正面には南無阿弥陀仏、側面には蜀山人による署名入りの銘文が刻まれているそうです。
又、街道に戻り、少し行った右手に「くめや(粂屋)」江戸時代に建てられた脇本陣です。本陣に次ぐ格式の高い宿が脇本陣。ここ粂屋には、加賀藩の家臣が宿としていたことを記した宿札が残っています。
また少し行くと「山謙酒造」江戸中期創業の蔵元を引き継いで山謙酒造として始業したのは明治末期。三角屋根の外観が印象的な建物で昔のままの広い土間があり通り土間は裏道まで続いています。破風にある虫籠窓(むしこまど)も魅力的です。路地を挟んで大きな酒蔵は今は使っていません。「姫百合」がブランド名です。
市町の最後は「小諸宿問屋場」(国の重要文化財)。問屋場とは、宿場を通る荷物をリレーし、人や馬を手配していた公的施設。これは江戸後期の建物で、全国的にも例を見ない立派な問屋場です。破風にある小屋根の庵看板風なものは何でしょう?
一気にくねくねした街道を千曲川方面に下ります。1km先に「布引観音」と北國街道の分岐があります。山道を登り観音様に無事を祈った旅人も居たのだと思います。右の真直ぐな方面が北國街道。手前を左に行くと「布引観音」。
又くだらない「布引縁起」。昔信心のうすい老婆が千曲川で布を晒していたところ突然牛が布を角に引っ掛けて走り出しました。老婆は驚いて野を越え山を越えて牛を追いかけましたが気が付いて見ると善光寺まで来てしまい金堂あたりで牛は消えてしまいました。日も暮れる頃、どこからともなく一条の光明が差し、その霊光の尊さに思わずひざまづいて菩提心を起こし、一夜を金堂ですごし罪悪を詫び家に帰ってきました。
ある日ふと布引山を見ると岩角に布が吹き付けられていました。何とか布を取ろうとしていたところ布と共に石と化してしまいました。今も岩肌に白い布の形をした岩肌が見られます。『牛にひかれて善光寺参り』はここから来ています。
正式名称は、天台宗布引山釈尊寺 写真は断崖絶壁にかかる観音堂(重文)に安置されているのが「布引観音様」
2019年5月3日コモロスミレを見たついでに登った時の写真です。何時か紹介します。
小諸市3つ目の青木(新町)の一里塚を目指します。
布引観音の分岐点に車を止め歩き出しましたが、周りは冬枯れの田圃の風景のみ。こんなつもりじゃなかったがなかなか見つかりません。何人かの人に聞きやっと「青木の一里塚」にたどり着きました。
ウウウ思い出した、雷伝為衛門のお寺、歩きでホンノちょっと、小諸の街道歩きしたとき立ち寄った記憶がよみがえりました。
お早うございます。
高さ40cmの鐘とは言え、懐に入れて持って来るには重かったでしょうね(^_^)
雷電為衛門は強いばかりでなく、頭も切れる人物だったようです。
私には、機知にとんだ冗談のように思えました。