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ゆっ~くり道草北國街道を歩く-15-3

姨捨山人さん
姨捨山人 さんのブログ[カテゴリ:寄り道散歩
2021.5.17 17:16
 街道から20m程入ったところに「天皇子神社(あまおうじじんじゃ)」があります。祭神は第十一代垂仁天皇(すいにんてんのう)の第十四王子、鳥取の王子とも言われた「伊登志和気命(いとしわけのみこと)」と「正哉吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)」。境内にはこの地でお亡くななられた命の御陵墓でもあります。古くは「王子の宮」「王子神社(ひめみこ)」「王子大明神」などと称されていましたが、文政10年(1827)天皇子神社の社名を受け、社紋には菊の御紋章が使われています。
千古の歴史を物語るけやきの巨木(目通り8.7m)は如実に古社の風を呈しています。


 同じ境内にこの地方ではの「養蚕大神社」なるものがあります。生糸、養蚕の生産ダントツの日本一を誇る信州にはこのような社があちこちにあります。

 天皇子神社を過ぎると、次の右手の路地に「繁久山永昌寺(はんきゅうざんえいしょうじ)」の寺標が立っており、参道の先、踏切を越えたところに永昌寺本堂がある。創建年代は不詳ですが本堂の紋章は五三の桐と菊の御紋章です。その由来は聞かずじまい。それにしてもこの辺りには何故か菊の御紋章が多いです。



 しなの鉄道『屋代駅』近くに私達は一重山と呼んでいた有明山があります。その有明山を背に月の名所「姨捨山」に対していたことから、山号を「名月山」。開祖の政国が祖父満照に因んで山号を「満照寺」と付けたという事です。


 一寸長くなりますが、逸話を2話聞いてください。
 満照寺は御天領であったことから、時の加賀の前田公も参勤交代のおり、当山へ立ち寄ることもしばしば、江戸中期から後期にかけての逸話であります。
前田公も御天領には馬・駕籠に乗っては入られぬ。御天領域は徒歩にて夏の暑いさなか歩かれた。ようやくたどり着いた満照寺にて一休み、時の和尚は何を血迷ったか百万石の殿様に「夏の炬燵」を差し上げた。どうぞ殿様、この炬燵にお入りください。
 御天領和尚のいうこと聞かねばならぬと、半信半疑足を炬燵に差し入れた。ところが昔の炬燵は掘り炬燵、なんと涼しく長旅の足の疲れも吹き飛んだ。布団を捲り(めくり)灰を覗けば真っ赤な炎が見えている。よくよく見ると、そこには朱塗りのお椀が伏せてあり、頓智のきいたこの計らいに偉くご満悦にて江戸に向かわれた。その計らいは江戸にて広まり、信州信濃の満照寺、「ぬるい炬燵は満照寺」として世間に紹介された。
子供の頃、私達はぬるい炬燵のことを「まるで満照寺のようだ」と言い慣わしていました。
 もう一つは
 佐久間象山は嘉永四年(1851)、生萱村より大砲の試射を行った。なんと玉は飛び過ぎ、田を越え、山を越え御天領の満照寺山麓に着弾。時の和尚と名主は、一大事件とばかり坂城(寝ずみ、現ねずみ)の代官所へ持ち込んだ。象山先生もこの時ばかりは驚いたことは隠せない。

 開祖の政国は村上氏(現長野県埴科郡坂城町)の老職にあり屋代城主であったことから「丸に上」の紋を授かった。信濃の村上氏と同じ「丸に上」の紋、村上水軍(伊予)の物語は何時かお話しようと思います。宿題が多くなり頭が痛いです。


何故か原因が分かりませんでしたが、変則3部作になりました。
真実一路ホテイランtopkat飛翔信々亭チャコまるえゆりのき@スズジイ@しょうく 15人がいいねと言っています
コメント
涼音さん
涼音 さんのコメント
2021.5.18 5:42
おはようございますっ

また私もこのような寺院なんか写真に撮りにいきたいと
思っています。コロナが少しはマシにならないと。
緊急事態宣言がでている京都はでられませんからね。
1人がいいねと言っています
姨捨山人さん
姨捨山人 さんの返信コメント
2021.5.18 6:19
涼音 さん
お早うございます!

京都の神社仏閣とは比較になりませんが、田舎の喧騒から離れた小さな寺院もまた風情があり私は好きです。
静かな朝もやの中の京都の寺や社を巡ってみたいです。それにしても涼音 さんが羨ましい。
0人がいいねと言っています
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