姨捨山人 さん
姨捨山人さんの投稿
ゆっ~くり道草北國街道を歩く-16
いつものようにネットからお借りした略図です。

屋代駅前の街道はすっかり広くなり、昔、狭い未舗装の道をボンネットバスが走っていた頃の面影はありません。道の傍に寄せられた「筆塚」「道祖神」この二つの碑はセットになっている所が多いのは近くの物を集めたことに依るか?それと新しそうな燈篭、半分欠けた判読不明の碑があります。


少し行くと右手に寺があります。「関谷山九品院生蓮寺(せきやさんくほんいんしょうれんじ)」の創建は不明ですが、山門の前に宝暦11年(1761)の岡崎城主奉納石灯籠、豊後杵築城主奉納石燈籠があり、武州 増上寺と戒名「惇信院殿(じゅんしんいんでん)」と刻まれています。惇信院殿は徳川九代将軍家重の戒名ですが何故ここにあるのか、詳細は不明です。



街道突き当りの神社の前は三差路(T字路)。手前左に旅籠を思わせる藤屋旅館がある。二階の看板には「ふぢや作治右衛門」と記されている。子供の頃はもっと古い建物だったような気がしますが、いつの頃か化粧し直したようですね。

突き当りは「須須岐水神社」。左に行けば「北國西街道(北國西往還・善光寺街道)」、右に行けば長野県最大の規模、全長約100メートルの前方後円墳「森将軍塚」です。須須岐水神社の創建は、古代で此の地の産土の鎮守であり、古来より水神として崇敬され、18ヶ村の総社でしが、天保14年(1843)3月矢代宿の大火で類焼しました。たまたま近隣の「武水別神社」に来ていた宮大工「立川富昌」を棟梁に彫刻付きの本殿の再建にかかり、寛永4年(1851)に今の本殿が出来ました。拝殿後ろの本殿の彫刻は金網で覆われ良く見えません。

拝殿

本殿

本殿の彫刻は良く見えませんでした(>_<)


境内には、白鳳2年(651)創建の祝神社を始めとして、養蚕社(立川富昌作)のほか、「烏帽子岩」神社が創建される以前そこに神を招いて祭祀を行った石(磐座{いわくら})と思われます。一般には降臨石、影向石(ようごうせき)などと言われています。
祝神社(はふりじんじゃ)

養蚕社(立川富昌作)小社にしては彫刻は見事。

此処に神社を創建するきっかけとなった「磐座」

神社前の三叉路を右に曲がり、鉤の手にすぐ左に曲がります。しばらく歩くと右手に「北国街道信濃矢代宿脇本陣跡」の石標。脇本陣を思わせるものは皆無。

脇本陣の道を挟んで「山王山法華寺」寺らしい佇まいではありませんが本堂改修前の鬼瓦が塀に立てかけてありましたが、なかなか立派なものでした。


脇本陣の隣の道は松代街道(北国東脇往還)との追分と思われますが、いずれ歩きたい道なのでその時に報告できればいいかなと思います。そこにある矢代宿の簡単な説明板です。


その先に「明治天皇屋代御小休所」の碑。矢代宿本陣跡です。建物はありませんが、脇本陣と同姓の柿崎家が問屋場を兼ねて本陣を勤めていました。

この先は高速道路「更埴ジャンクション」により沢山の土地がつぶれました。御多分に漏れず北國街道も分からなくなるほどの被害(?)を受けました。ここは矢代の渡し(おおよその場所は分かりますが特定された場所はありません)の矢代側を諦めて対岸の篠ノ井側へ行きます。国道18号線の千曲川に架かる「篠ノ井橋」を渡り土手を篠ノ井側の矢代の渡しに向かいます。
篠ノ井橋から千曲川を眺める。

橋から5~600mほど土手を歩いた先に「軻良根古神社(からねこ)」があります。ここ軻良根古神社のあたりから千曲川対岸の矢代(現在の屋代)へ渡るための「矢代の渡し」がありました。おそらく新幹線橋梁の下あたりに船着き場があったと推測しています。


軻良根古神社(からねこじんじゃ)の創建年代等は不詳であるが、篠井氏の祖先は高麗(こま)からの渡来人で、高麗彌子(からねこ)を意味して祀る。唐猫宮ともいい、上田盆地の湖の水に流されて死んだ鼠は坂城町(坂木宿)に流れ着き、鼠を退治しようとした唐猫は此の地に流れ着き、この唐猫を祀ったのがこの神社だという伝説があります。


明治天皇が行幸の折、渡し船で着いた時お召しかえになった「御召換(おめしかえ)」碑が建つ。御召換だけで碑が建つんですね~。

果樹畑の間を進みます。リンゴや桃の小さな実が葉の間から顔を出しています。摘果され多くの実は短い一生を終えます。個人宅のブロック塀の隅に明治時代の「郡役所跡」と「警察署跡」。昭和の大合併で「郡(更級郡)」は消滅。国鉄(JR)「篠ノ井駅」が出来るまではこの辺りが郡の中心地であったのです。
屋代駅前の街道はすっかり広くなり、昔、狭い未舗装の道をボンネットバスが走っていた頃の面影はありません。道の傍に寄せられた「筆塚」「道祖神」この二つの碑はセットになっている所が多いのは近くの物を集めたことに依るか?それと新しそうな燈篭、半分欠けた判読不明の碑があります。
少し行くと右手に寺があります。「関谷山九品院生蓮寺(せきやさんくほんいんしょうれんじ)」の創建は不明ですが、山門の前に宝暦11年(1761)の岡崎城主奉納石灯籠、豊後杵築城主奉納石燈籠があり、武州 増上寺と戒名「惇信院殿(じゅんしんいんでん)」と刻まれています。惇信院殿は徳川九代将軍家重の戒名ですが何故ここにあるのか、詳細は不明です。
街道突き当りの神社の前は三差路(T字路)。手前左に旅籠を思わせる藤屋旅館がある。二階の看板には「ふぢや作治右衛門」と記されている。子供の頃はもっと古い建物だったような気がしますが、いつの頃か化粧し直したようですね。
突き当りは「須須岐水神社」。左に行けば「北國西街道(北國西往還・善光寺街道)」、右に行けば長野県最大の規模、全長約100メートルの前方後円墳「森将軍塚」です。須須岐水神社の創建は、古代で此の地の産土の鎮守であり、古来より水神として崇敬され、18ヶ村の総社でしが、天保14年(1843)3月矢代宿の大火で類焼しました。たまたま近隣の「武水別神社」に来ていた宮大工「立川富昌」を棟梁に彫刻付きの本殿の再建にかかり、寛永4年(1851)に今の本殿が出来ました。拝殿後ろの本殿の彫刻は金網で覆われ良く見えません。
拝殿
本殿
本殿の彫刻は良く見えませんでした(>_<)
境内には、白鳳2年(651)創建の祝神社を始めとして、養蚕社(立川富昌作)のほか、「烏帽子岩」神社が創建される以前そこに神を招いて祭祀を行った石(磐座{いわくら})と思われます。一般には降臨石、影向石(ようごうせき)などと言われています。
祝神社(はふりじんじゃ)
養蚕社(立川富昌作)小社にしては彫刻は見事。
此処に神社を創建するきっかけとなった「磐座」
神社前の三叉路を右に曲がり、鉤の手にすぐ左に曲がります。しばらく歩くと右手に「北国街道信濃矢代宿脇本陣跡」の石標。脇本陣を思わせるものは皆無。
脇本陣の道を挟んで「山王山法華寺」寺らしい佇まいではありませんが本堂改修前の鬼瓦が塀に立てかけてありましたが、なかなか立派なものでした。
脇本陣の隣の道は松代街道(北国東脇往還)との追分と思われますが、いずれ歩きたい道なのでその時に報告できればいいかなと思います。そこにある矢代宿の簡単な説明板です。
その先に「明治天皇屋代御小休所」の碑。矢代宿本陣跡です。建物はありませんが、脇本陣と同姓の柿崎家が問屋場を兼ねて本陣を勤めていました。
この先は高速道路「更埴ジャンクション」により沢山の土地がつぶれました。御多分に漏れず北國街道も分からなくなるほどの被害(?)を受けました。ここは矢代の渡し(おおよその場所は分かりますが特定された場所はありません)の矢代側を諦めて対岸の篠ノ井側へ行きます。国道18号線の千曲川に架かる「篠ノ井橋」を渡り土手を篠ノ井側の矢代の渡しに向かいます。
篠ノ井橋から千曲川を眺める。
橋から5~600mほど土手を歩いた先に「軻良根古神社(からねこ)」があります。ここ軻良根古神社のあたりから千曲川対岸の矢代(現在の屋代)へ渡るための「矢代の渡し」がありました。おそらく新幹線橋梁の下あたりに船着き場があったと推測しています。
軻良根古神社(からねこじんじゃ)の創建年代等は不詳であるが、篠井氏の祖先は高麗(こま)からの渡来人で、高麗彌子(からねこ)を意味して祀る。唐猫宮ともいい、上田盆地の湖の水に流されて死んだ鼠は坂城町(坂木宿)に流れ着き、鼠を退治しようとした唐猫は此の地に流れ着き、この唐猫を祀ったのがこの神社だという伝説があります。
明治天皇が行幸の折、渡し船で着いた時お召しかえになった「御召換(おめしかえ)」碑が建つ。御召換だけで碑が建つんですね~。
果樹畑の間を進みます。リンゴや桃の小さな実が葉の間から顔を出しています。摘果され多くの実は短い一生を終えます。個人宅のブロック塀の隅に明治時代の「郡役所跡」と「警察署跡」。昭和の大合併で「郡(更級郡)」は消滅。国鉄(JR)「篠ノ井駅」が出来るまではこの辺りが郡の中心地であったのです。
7月に長野に行く予定があるので、ちょっと足をのばしてみようかな~♪♪
【千曲市=あんず】のイメージしかなく、いつも通り過ぎていました。
よくよく考えたら、温泉とかもあるんですよね~☆
旅行の参考になりました~(*'▽')♪
返信遅くなりすみません。
アンズ。花ですか?実ですか?
是非お寄りください。近くの森温泉より、戸倉上山田温泉の源泉かけ流し、24時間入浴O.Kをお勧めします。
全長100メートルの前方後円墳。ちょっとした山道ですが、シャトルバスもあります。
長野県立歴史館も併設されているので良かったら寄って見て下さい。
こんにちは♪
杏は実の方です(*'▽'*)♪
そういえば、杏のお花見た事ないです。。。
わぁ~(≧▽≦)♪
長野の情報ありがとうございます!!!
前方後円墳好きです!!!
何年か前に、上皇、上皇后さまもアンズの花を愛でられました。
お書きになられたら良かったのに。