姨捨山人 さん
姨捨山人さんの投稿
ぶらり善光寺―その3ー2
途中までで切れてしまったので続きをUpします。
本堂の西北にある「日本忠霊殿・善光寺史料館」。戊辰戦争から第二次世界大戦に至るまでに亡くなられた240万余柱の英霊を祀る、我が国唯一の仏式による霊廟だそうです。1階には善光寺所蔵の什物を展示する「善光寺史料館」が併設され、絵馬などを通して全国に根付く善光寺信仰の歴史を垣間見ることができます。

西側の境内にはまだまだユニークな石碑などがあります。「石造宝篋印塔(せきぞうほうきょういんとう)」この地方で最古の逆修供養塔(自分より先に亡くなった年下の誰かを慕い供養したもの)です。
源義経の忠臣、佐藤継信・忠信兄弟の供養塔と言われ、若くして戦死した二人を供養するため、母親の梅唇尼(ばいしんに)が善光寺に参詣して建てたといいます。

「高尾燈篭」。美浦屋四郎左衛門が遊女高尾太夫の供養塔として造立されたと昔より言われています。

「松代藩真田家の古搭」。松代藩の藩主、真田家の供養塔です。

「むじな燈篭」。下総国のむじなが殺生しなければ生きていけないことを恥じ、人に化けて善光寺に参詣、むじなは燈篭を寄進したいと願っていたが、宿坊でうっかりむじなの姿で入浴していたところを人間に見つかり、何処かへ逃げ去りました。不憫に思った宿坊の住職がその願いをかなえるため燈篭を立てたと言われています。

北のエリアにはこれといったものはありませんが、「千人塚(二斗八塚)」延宝年間に起こった百姓一揆、二斗八騒動で処刑された人々の供養塔。米三斗の高い年貢を18歳の弥助らが直訴して年貢二斗八升にしましたが、処刑された弥助や名主の冥福を祈って立てられました。

「徳川家大奥供養塔」徳川将軍家光の正室本理院、乳母春日局、家光の次男綱重の正室紅玉院など大奥関係者の供養塔です。善光寺の出開帳の折には前立本尊が江戸城内に招き入れられるなど、善光寺は徳川将軍家から篤く信仰されていました。

その他「無縁仏供養塔」。全国各地の人々の供養塔、墓搭がありましたが長い年月の間に無縁仏になったものが数多くありました。「花霊碑」「迷子郵便供養塔」配達不能になった郵便物の供養塔です。



いつの間にか「雲上殿(納骨堂)」へ向かう道が、北参道という名の道になっていました。善光寺平を一望できる大峰山の中腹にあるこのお堂は、善光寺に古くから伝わる納骨・分骨の風習を受け継ぐために建てられました。堂内の霊壇・霊龕(永代使用可能な簡易墓)は宗派を問わずどなたでもご利用できるそうです。雲上殿の両翼に納骨堂が増築されていました。高い永代供養墓より安価な納骨堂を利用する人が増えたせいでしょうか。



昔、本堂の東エリアにあった「牛にひかれて善光寺参り」のシンボルがこちらにドカッと座っています。インドから友好のしるしに送られた三頭の白牛はこの像の下に静かに眠っているそうです。

御地蔵や
花なでしこの
真ん中に 一茶
可愛らしい撫子の花に囲まれた御地蔵さまに、手をあわせている優しい風景が目に浮かんできます。
案内が上手く出来ず「忸怩(じくじ)たる思い」でいっぱいです。次回から「北國街道」に戻ります。
本堂の西北にある「日本忠霊殿・善光寺史料館」。戊辰戦争から第二次世界大戦に至るまでに亡くなられた240万余柱の英霊を祀る、我が国唯一の仏式による霊廟だそうです。1階には善光寺所蔵の什物を展示する「善光寺史料館」が併設され、絵馬などを通して全国に根付く善光寺信仰の歴史を垣間見ることができます。
西側の境内にはまだまだユニークな石碑などがあります。「石造宝篋印塔(せきぞうほうきょういんとう)」この地方で最古の逆修供養塔(自分より先に亡くなった年下の誰かを慕い供養したもの)です。
源義経の忠臣、佐藤継信・忠信兄弟の供養塔と言われ、若くして戦死した二人を供養するため、母親の梅唇尼(ばいしんに)が善光寺に参詣して建てたといいます。
「高尾燈篭」。美浦屋四郎左衛門が遊女高尾太夫の供養塔として造立されたと昔より言われています。
「松代藩真田家の古搭」。松代藩の藩主、真田家の供養塔です。
「むじな燈篭」。下総国のむじなが殺生しなければ生きていけないことを恥じ、人に化けて善光寺に参詣、むじなは燈篭を寄進したいと願っていたが、宿坊でうっかりむじなの姿で入浴していたところを人間に見つかり、何処かへ逃げ去りました。不憫に思った宿坊の住職がその願いをかなえるため燈篭を立てたと言われています。
北のエリアにはこれといったものはありませんが、「千人塚(二斗八塚)」延宝年間に起こった百姓一揆、二斗八騒動で処刑された人々の供養塔。米三斗の高い年貢を18歳の弥助らが直訴して年貢二斗八升にしましたが、処刑された弥助や名主の冥福を祈って立てられました。
「徳川家大奥供養塔」徳川将軍家光の正室本理院、乳母春日局、家光の次男綱重の正室紅玉院など大奥関係者の供養塔です。善光寺の出開帳の折には前立本尊が江戸城内に招き入れられるなど、善光寺は徳川将軍家から篤く信仰されていました。
その他「無縁仏供養塔」。全国各地の人々の供養塔、墓搭がありましたが長い年月の間に無縁仏になったものが数多くありました。「花霊碑」「迷子郵便供養塔」配達不能になった郵便物の供養塔です。
いつの間にか「雲上殿(納骨堂)」へ向かう道が、北参道という名の道になっていました。善光寺平を一望できる大峰山の中腹にあるこのお堂は、善光寺に古くから伝わる納骨・分骨の風習を受け継ぐために建てられました。堂内の霊壇・霊龕(永代使用可能な簡易墓)は宗派を問わずどなたでもご利用できるそうです。雲上殿の両翼に納骨堂が増築されていました。高い永代供養墓より安価な納骨堂を利用する人が増えたせいでしょうか。
昔、本堂の東エリアにあった「牛にひかれて善光寺参り」のシンボルがこちらにドカッと座っています。インドから友好のしるしに送られた三頭の白牛はこの像の下に静かに眠っているそうです。
御地蔵や
花なでしこの
真ん中に 一茶
可愛らしい撫子の花に囲まれた御地蔵さまに、手をあわせている優しい風景が目に浮かんできます。
案内が上手く出来ず「忸怩(じくじ)たる思い」でいっぱいです。次回から「北國街道」に戻ります。
お陰様で
善光寺さんに御参り出来ました(⌒∇⌒)ノ"
その後腰痛はいかがですか。
昔の寺などはつい最近まで女人禁制の立て札が建てられていましたが、信濃の善光寺は創建以来、貧富の差、男女の差、宗教の違い、すべからく制約はありません。
それが「一生に一度は善光寺」になったのでしょう。
スミマセン釈迦に説法でした。
信州 大好き~ 私です。
善光寺さま 通年は 春と秋冬とで 2回・・ 参拝に
でも このコロナ禍・・ 昨年より ご挨拶できずじまいです。。
姨捨山人さんの とても ご丁寧な・・ ご案内
拝読させていただいて
まるで 自身で 参拝しているかのようでした。
今回 善光寺さまの 歴史他 はじめて目にする 耳にするもの多々。
とても 勉強になりました。 改めて 御礼 申し上げます。
そんな私は この数年は・・ 楽して?本堂の北側に車をとめ 徒歩数分で
本堂に お参り・・ そして 参道を下り~上がってくるという不埒な参拝方
これでは ご利益は ないですね。
沢山 種類のある「おみくじ」も・・ むなしく? ^^滝汗
[画像は削除されました]
参道途中の・・ 私の彼女 元気にしてるかなぁ~ (//∇//)
[画像は削除されました]
今日は!よりこんばんは!になりました。
私が若い頃は、今の北側の駐車場は蓮池でした。地名を「箱清水」と言い、綺麗な水の湧く土地だったようです。
大昔、如来堂(善光寺)は四門四額とも言い、4つの門があったとされています。北の門を「北空山雲上寺」といい、福 老(ふくろう) さんが北から入られても一向構わないと思います。私の独断の考えですが。
はい、彼女も元気にしております。信州でも土地によって「おやき」の作り方も色々です。たまには浮気も許してくれると思います(^_^)
>今の北側の駐車場は蓮池でした。
そうでしたか。 それで・・ 他の駐車場に くらべ
広く平坦な 土地が 広がってましたね。あれほどの面積 埋め立ては 大変だったでしょうね。
>地名を「箱清水」と言い、綺麗な水の湧く土地だったようです。
また 勉強になりました。 有り難うございます。
次回 行ったときは 目を閉じ 遥か いにしえの 蓮池を・・ 感じてみますね。 (*^。^*)♪