メニュー
ゲストさん
姨捨山人さんの投稿

ゆっ~くり道草北國街道を歩く-19

姨捨山人さん
姨捨山人 さんのブログ[カテゴリ:寄り道散歩
2021.6.7 13:19
間が空きましたが、「北國街道ぶらり旅」を再開します。

 丹波島橋を渡ったところから善光寺宿ですが、昔は宿場の雰囲気は感じられなかったと思います。
ただ犀川を渡ったところの両側に永代常夜灯があることで、ああやっと善光寺の入り口に来たと旅人はホッとしたことでしょう。永代常夜灯には文政3年(1,820)、6年の建立年が刻まれていました。


 丹波島橋の国道18号線から右の旧北國街道へそれます。しばらくは街道に関係するものがありませんが途中右手に「馬頭観音菩薩」。失礼して帽子をとって見ました。まさに馬頭観音様でした。

 少し歩いた左側に小さなお堂「吹上地蔵堂」があります。境内の碑に「巡礼供養塔」の碑があり、「秩父、坂東、西国、四国、当所供養塔」と書かれています。巡礼の途中、こころざし半ばで亡くなった仲間の人たちを供養したのでしょう。


100mほど行った同じ左側に比較的小さな「蓮心寺」があります。北国街道に面し、現在の善光寺造営の時に裾花川から犀川へ造営用の木材が流れ込もうとした時に、当時の阿弥陀如来が風を吹かせて木材の流出を防いだ史実から、当山の本尊阿弥陀如来は風吹如来と呼ばれています。

 隣接する「木留神社」。社名の由来は、善光寺再建のための材木を犀川丹波島の渡しで陸揚げし、境内に留め置いたからだと伝わる。社の沿革を見ると、高札場でもあったようですが、すり減った社のすべてを焼却し、新しく神社を再建し後世に語り継ぐことにしたそうです。
境内には「行人塚(ぎょうにんづか)」もありました。行者が生きたまま埋葬され、即身成仏したと伝えられる塚、或いは行者がそこにこもって飲食を断ち、生きながらにして仏になったという伝承をもつ塚です。



 更に1km弱の所に「観音寺」。浄土宗で、御本尊は馬頭観世音菩薩です。屋根瓦には頼朝の紋「笹竜胆」が付いています。
街道(中御所)に面した寺の入り口には「征夷大将軍源頼朝公御守仏・髻馬頭観世音」の標柱がある浄土宗「明助山観音寺」です。

治承3年(1179)善光寺は火災に遭いましたが、再興したのは、源頼朝公でした。建久8年(1197)善光寺に参詣した頼朝公の一行は、この土地に一泊し、その夜、守仏の髻(もとどり)観音(馬頭観世音菩薩)が、この地に留まりたいと告げたので頼朝公は、髻観音をまつり、寺を建立したという事です。
お堂には髻観音と二位禅尼政子の御持仏の厄除観音(一寸一分)を託した観音像二体と聖徳太子御作火防地蔵菩薩(五寸)が収められています。


 8月9日四万八千日観音。この日、お参りすると四万八千日お参りしたのと同じ功徳があると言われています。

 この先はJR長野駅です。街道は完全に切断されています。駅の通路を通り西口(善光寺側)に出ます。ブログ「ぶらり善光寺―その1」の<駅の広場の先、十七丁から参道を進みます。50mあるかなしかの十字路(末広町交差点)を右に曲がります。ここは参道と北國街道の重なるところです>十字路の善光寺に向かって右下の角「旧糀屋」から街道を進めます。
学校の行帰りにあった「糀屋」はその面影をなくし、今は栗菓子の「竹風堂」に変わりました。

参道を善光寺に向かって2km弱を歩きます。參道には色々あります。昔はなかった「○○丁」(丁目は間違い)と刻まれた里程標。句碑、案内碑、案内板、24対48基の「春日灯籠」と呼ばれる木製の灯籠が歩道植え込みに建てられ、四面ある火袋には、長野灯明まつりの灯り絵コンテストで入選した切り絵が入っています。(燈篭の基は確認していません、あくまでも予定です)






 参道を少し歩くと右手に浄土宗の「刈萱山寂照院西光寺」があります。絵解きを現代に蘇らせた「絵解きの寺」としても有名です。
開祖・刈萱上人(筑前の国の領主で刈萱の荘で暮らしていた加藤左衛門重氏が出家して名乗った法師名です)とその御子信照坊道念(幼名石童丸)のお2人が刻んだ2体の「刈萱親子地蔵尊」を御本尊として安置しています。

 境内には「かるかや親子の対面」像、一茶、芭蕉句碑、「刈茅親子の墓」「朝日山大蛇の塚」など見どころが沢山あります。


 境内には「かるかや親子の対面」像、一茶、芭蕉の句「刈茅親子の墓」「朝日山大蛇の塚」など見どころが沢山あります。
 一茶の句碑
        花の世は
           佛の身さえ
               親子哉

 芭蕉句碑があります。寛保3年(1743)芭蕉の五十周忌に建立されたもので、長野県内にある芭蕉の句碑としては最古のものだそうです。
        雪散るや
          穂屋のすゝきの
               刈残し

 「刈茅親子の墓」刈萱塚((刈萱上人の墓中央)道念(石童丸)が刈萱上人(父)の菩提を弔うために建てた石塔。元は九重の塔だったのですが、善光寺大地震で崩れ、今は五重の塔になっています。右の高い石塔が石童丸の墓、左の三重の塔が千里御前(母)の墓で、石童丸が高野山から分骨したものだそうです。

 此処で雑学です。絵解きとは、ついこの間の時代まで広く民衆に親しまれた語りの文化です。貴族や知識者たちが学んだ難解な仏教の経典とは違って、お坊さんや後には専門の芸能者たちが、釈迦の伝記だの、お寺の縁起だの、高僧の一代記等々、あらゆる題材を絵解きしていました。文盲の多かった時代、絵を見ながら語りを聴いて物語世界に引き込まれ涙することもあったでしょう・・幼い子供を夢中にさせる紙芝居に近い楽しさだったのかもしれません。
 刈茅堂では「刈茅道心石童丸御親子御絵伝」「十王めぐり(冥土の旅)」「六道地獄絵」を聞くことが出来ます。
https://www.youtube.com/watch?v=PWOpgRqh2vs
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%85%E8%90%B1

 出来ることであれば、表参道を歩いて善光寺に参拝してください。行きは右側、参拝が済んだら帰りは右側、これで左右が歩けます。新しい発見があるかもしれません。
信々亭ジャムしょうく真実一路チャコ☆ 福 老(ふくろう)ゆりかもめ柚月白髪鬼ホテイラン 22人がいいねと言っています
コメント
ゆりかもめさん
ゆりかもめ さんのコメント
2021.6.7 14:38
善光寺にお参りして
賛同を歩きましたが
何処の道を歩いたのか忘れてしまいました。

覚えているのは
寺のお戒壇巡り・・・暗いとても暗い暗闇の中を歩きました・

お土産に数珠を買ってきた。
この数珠は今もなお・・
不幸があったときは役に立っています。
1人がいいねと言っています
姨捨山人さん
姨捨山人 さんの返信コメント
2021.6.7 15:15
ゆりかもめ さん
こんにちは
戒壇巡りで、極楽のお錠前に触られましたか?
落語では石川五右衛門がお錠前に触って「ありがたや」と言ったとたん極楽にスーと行ったそうな
数珠も念仏を唱えた数を数えた物だと聞いたことがあります。
0人がいいねと言っています
ぎ~やんさん
ぎ~やん さんのコメント
2021.6.7 14:19
単純に、顔も存じ上げない人が、よくぞ父親に会えたことは不思議です。
1人がいいねと言っています
姨捨山人さん
姨捨山人 さんの返信コメント
2021.6.7 14:35
ぎ~やん さん
こんにちは
偶然とか必然とか人知の及ばぬことってあるかもしれませんね。
この類の物語は、長い年月の間に都合のいいように脚色されたんだと思います。
0人がいいねと言っています
しょうくさん
しょうく さんのコメント
2021.6.7 13:57
何回かなー、あれこれ思い出すと3回は確実に善光寺さん、おとづれてます、駅から歩いたと記憶してますが、あとなにか観光バスで行ったことがあったなと、今思い出しましたが、そのときの記憶はホトン駄りません、やっぱり歩くのが一番ですね。
1人がいいねと言っています
姨捨山人さん
姨捨山人 さんの返信コメント
2021.6.7 14:19
コメント有り難うございます。
>やっぱり歩くのが一番ですね。
私もそう思います。ユックリ余裕をもって見聞きするのが一番。
リンクを貼ってあるので時間がありましたら開いて見て下さい。
1人がいいねと言っています
人気記事

Slownetの公式SNSアカウントをチェック!

ボタンをタップしてフォローしてね!