姨捨山人 さん
姨捨山人さんの投稿
ゆっ~くり道草北國街道を歩く-23
思いの外、長いブログになってしまいました。読んで頂けるか心配ですが、希望としてはじっくり読んで頂けたらと思っています。

新町宿を過ぎ、山道と言っても舗装された道をジグザグに登ります。途中石仏などを辿りながら旧北國街道か確認しながら歩を進めます。

道々、端にオニグルミが沢山実を付けています。リスの餌になったり、昔は旅人のおやつになっただろうかなどと勝手に想像して楽しみながら登ります。

悲しいかな古い石碑文字など不勉強で、所々読める字があると想像で読み解くしかありません。更に、昔の石碑などは風雪で不鮮明になり、追い打ちをかけられています。

リンゴ畑の木陰にたたずむ菩薩の像の横に「無縁佛」の石碑。旅の途中、病気で倒れたのか名も知れぬ旅人に石碑を建てて葬ってくれた村人の心根を思うと共に手を合わせてしまいます。


デフォルメされた千手観音菩薩様でしょうか、街道をゆく旅人を見守っていらっしゃいます。

なかなか目的の場所が見えてきません。草むらに新しい碑が建っていますこれなら私にも読めました。「三登髻両山改修紀功之碑」近くの三登山と髻山の改修記念碑と、「北陸御巡幸御野点之處」。松葉を燃やしてよい芳香を嗅ぎながら、湯を沸かし抹茶を入れて楽しまれたのでしょうか 。


いよいよ場所の分かるところへ出てきました。案内板に「丹霞郷(たんかきょう)」の文字、桃の花の時期でしたらそちらへ寄り道したかもしれませんが、もう実の季節。北信濃を代表する北信五岳の残雪を背景に薄紅色の桃の花が霞がたなびいているように美しく咲き競います。

集会所のような「太子堂」聖徳太子を祀るにはちょっとおかしい。地区の名前でもなさそうで、中を覗くこともできず???。

小さな集落の中をエッチラオッチラ登ります。旧街道を通った明治天皇や前田候の御通行に関する記録など貴重なものを沢山所蔵されていると云われる「白鳥山高山寺」、本堂横には名水の井戸があり前田候も飲んだことでしょう。民家のそばには石仏。


やっと広い通りに出てきました。藁ぶき屋根(茅葺き屋根)の覆いがある民家が多くあります。こういう風景が普通になる田舎です。

平出神社を過ぎてこの辺りでは一番標高の高い所、昔の街道であれば峠でありましょう。ここは「行人塚の三本松」と言われる場所です。街道をゆく旅人が一息ついた場所であり、こんもり盛られた塚は「修行者」を祀った塚とか旅人を葬った場所と言われています。



塚の隣に一茶の句があります。十五の春に江戸へ奉公に出た時、父が「牟礼」まで送ってくれたと後年書いています。
幼くして母を失い継母に育てられた子を不憫に思い、遠い道のりをここまで送ってくれた父親の心情がよくわかるような気がします。
父ありて
明けぼのみたし
青田原
父が亡くなって初七日に詠んだ句です。朝日を浴び、輝く青田原は父子にとって見慣れた情景でありながら、美しく、やるせない、特別な風景なのでしょう。一茶の句の「万物にやさしい」のは「悲しみ」(母や子の死別、貧しさ、生い立ち)の土台の上に築かれているからなのでしょう。

此処から宿場までは下り坂です。国道18号線を外れ、旧北國街道を下ります。目印の「四ツ谷の一里塚」の樹高18mのエノキの大木です。多くの一里塚が失われた現在では一対で残る塚は長野県でも希少な存在です。



北信五岳の一部と田園風景。昔の人もこのような風景を見ていたのでしょうか。道端の草むらには野仏、珍しく千手観音の足下に三猿が彫られています。馬頭観世音なども此処に集められたのでしょう。



登ると大変ですが、下りなのでラクチン。「牛落し(うしおとし)の坂」牛が転げ落ちるほどの急坂といわれた難所。新道と旧道があるのでもちろん旧道を通ります。


新しい牟礼宿の碑。しなの鉄道(旧信越線)のガードをくぐり左に曲がります。(宿場出口、入り口?の桝形)
北信五岳の一つ飯綱山は、古くから修験道の霊山として栄えてきました。変幻自在の天狗・飯縄大明神は不動明王の化身ともされ、戦国武将から守護神として崇敬。上杉謙信は兜の前立てに飯縄明神像を、武田信玄も甲州に勧請、持仏として身に付けていたという。その天狗を街灯の上にあしらっています。


宿場の中ほどに「古間鎌」の問屋をしていた山本家は幕末の建築で本卯建を揚げる。(お化粧直しの跡が見える)
ここでは、[問屋制家内工業]形態の問屋が,家内工業をいとなむ手工業者に資金・原料・道具などを貸しあたえ,生産を行わせる工業の形です。

宿場の中心部を通る十字路に脇本陣(近所の方に聞くと宿屋もやっていたそうです)目印になるもの一切ありませんでした。筋向いの角には「本陣跡」の碑場所は駐車場になっており、説明板が設置されています。


宿場中央を流れていた宿場用水(海野宿を参照あれ)は両側に寄せられているが、大きな鐘楼門のある「清水山龍宮院徳満寺」境内を徳満寺堰の水が滔々(とうとう)と流れています。

牟礼宿の突き当りが「髻山證念寺」左に向かう桝形の先には十王堂。この急坂を「十王坂」といいます。坂上の桜の古木から下を覗けば一服の絵になります。寺の石垣は「ぼたもち石」と呼ばれる大きな丸石と組み技術は北信地方で見られる石組みで、弘化4年(1,847)の善光寺地震でも崩れなかったそうです。



「十王堂」とは死後の世界をつかさどる十人の王をまつったお堂。 泰広王(不動明王)・初江王(釈迦如来)・宗帝王(文殊菩薩)・五官王(普賢菩薩)・閻魔王(地蔵菩薩)変成王(弥勒菩薩)・太山王(薬師如来)・平等王(観音菩薩)・都市王(勢至菩薩)・五道転輪王(阿弥陀如来)十王とは私たちが亡者になって仏様の世界に入って行く時、 生前の罪業の軽重を裁判し次に生まれて来る世界を決定する冥土の十人の裁判官である。そして、亡者は供養によって、これらの仏様に救われて仏界に送られるという。堂と十王石仏は明治天皇北陸巡幸のとき一時撤去され、平成2年(1990)旧地の斜向かいに再建されました。十王の他に奪衣婆(三途川で亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼。一説に閻魔大王の妻)も祀られています。

新道に出てしばらくすると左の小高い所に「臨川山観音寺」石段を上がると両脇に通常なら街道筋に祀られる石仏や庚申塔がここに集められたのでしょう雑然と置かれていました。庚申塔に彫られた「青面(ショウメン)金剛」ここにも「三猿」が彫られています。


道に戻ると前は三叉路、標識に従って右のきつい坂を旧街道に足を向けます。程なく右手に「金附場(かねつけば)」跡の平らな広場があります。以前はもっと広かった(300坪)そうですが川の浸食で狭くなったようです。北國街道の一つの任務は佐渡の金銀を江戸に運ぶこと、もう一つは無宿人を佐渡へ送ること。ここは中継地であり新しい馬に付け替えた広場の跡。

小玉道中堺碑(武州加州道中堺)この地点は江戸(武州=武蔵国)と金沢(加州=加賀国)をむすぶ北国街道の道程のちょうど中間にあたることから、加賀の大名前田家が建てた道程であるといわれ、碑には次の文字が刻まれています。
武州
加州 道中堺
建立年代は江戸時代初期と推定される。
伝承では、前田候は参勤交代の往復でここに到着すると、江戸屋敷と金沢城へ早飛脚を立てて旅の無事を知らせたといわれています。

傍らには真龍院歌碑があります。真龍院こと鷹司隆子(一七八七~一八七○)は関白鷹司 政熙(たかつかさまさひろ)の息女であり、加賀藩主第十二代前田斉広の正室である。
江戸から加賀国金沢への生涯初の長旅の途中、旅程の中間に至った感慨を詠んだ歌の碑があります。ちなみに、碑文は出自を同じくする善光寺大本願上人鷹司誓玉大僧正の揮毫であります。
住みすてし 跡の名残を 思い出の
そでに露そふ たびの中道

先の新道を斜めに横切り新道の隧道をくぐる手前に、「加賀藩小玉小休所」があります。安政3年(1,856)から加賀藩の藩主小休所になった黒柳家です。幕末には「本陣」と呼ばれていたそうです。個人宅なのでそぉーとお庭を写させてもらいました。


隧道をくぐり、跨線橋を渡りヤヤコシイ道をともかく旧北國街道と思しき道を歩きます。すぐ高札場がありました。正式な高札場かは疑問ですが、現代風に書かれた「定(さだめ)」です。

少し行くと右側の越後松平家の家臣田宮春則が出家して開基したと伝えられる「玉蓮寺」があります。寺紋は三ツ葉葵。徳川家康の位牌をまつっています。

いよいよ、この先北國街道で軽井沢の碓氷峠に次ぐ難所「小玉古道」です。「美しい日本の歩きたくなるみち500選」の一つを歩きます。
新町宿を過ぎ、山道と言っても舗装された道をジグザグに登ります。途中石仏などを辿りながら旧北國街道か確認しながら歩を進めます。
道々、端にオニグルミが沢山実を付けています。リスの餌になったり、昔は旅人のおやつになっただろうかなどと勝手に想像して楽しみながら登ります。
悲しいかな古い石碑文字など不勉強で、所々読める字があると想像で読み解くしかありません。更に、昔の石碑などは風雪で不鮮明になり、追い打ちをかけられています。
リンゴ畑の木陰にたたずむ菩薩の像の横に「無縁佛」の石碑。旅の途中、病気で倒れたのか名も知れぬ旅人に石碑を建てて葬ってくれた村人の心根を思うと共に手を合わせてしまいます。
デフォルメされた千手観音菩薩様でしょうか、街道をゆく旅人を見守っていらっしゃいます。
なかなか目的の場所が見えてきません。草むらに新しい碑が建っていますこれなら私にも読めました。「三登髻両山改修紀功之碑」近くの三登山と髻山の改修記念碑と、「北陸御巡幸御野点之處」。松葉を燃やしてよい芳香を嗅ぎながら、湯を沸かし抹茶を入れて楽しまれたのでしょうか 。
いよいよ場所の分かるところへ出てきました。案内板に「丹霞郷(たんかきょう)」の文字、桃の花の時期でしたらそちらへ寄り道したかもしれませんが、もう実の季節。北信濃を代表する北信五岳の残雪を背景に薄紅色の桃の花が霞がたなびいているように美しく咲き競います。
集会所のような「太子堂」聖徳太子を祀るにはちょっとおかしい。地区の名前でもなさそうで、中を覗くこともできず???。
小さな集落の中をエッチラオッチラ登ります。旧街道を通った明治天皇や前田候の御通行に関する記録など貴重なものを沢山所蔵されていると云われる「白鳥山高山寺」、本堂横には名水の井戸があり前田候も飲んだことでしょう。民家のそばには石仏。
やっと広い通りに出てきました。藁ぶき屋根(茅葺き屋根)の覆いがある民家が多くあります。こういう風景が普通になる田舎です。
平出神社を過ぎてこの辺りでは一番標高の高い所、昔の街道であれば峠でありましょう。ここは「行人塚の三本松」と言われる場所です。街道をゆく旅人が一息ついた場所であり、こんもり盛られた塚は「修行者」を祀った塚とか旅人を葬った場所と言われています。
塚の隣に一茶の句があります。十五の春に江戸へ奉公に出た時、父が「牟礼」まで送ってくれたと後年書いています。
幼くして母を失い継母に育てられた子を不憫に思い、遠い道のりをここまで送ってくれた父親の心情がよくわかるような気がします。
父ありて
明けぼのみたし
青田原
父が亡くなって初七日に詠んだ句です。朝日を浴び、輝く青田原は父子にとって見慣れた情景でありながら、美しく、やるせない、特別な風景なのでしょう。一茶の句の「万物にやさしい」のは「悲しみ」(母や子の死別、貧しさ、生い立ち)の土台の上に築かれているからなのでしょう。
此処から宿場までは下り坂です。国道18号線を外れ、旧北國街道を下ります。目印の「四ツ谷の一里塚」の樹高18mのエノキの大木です。多くの一里塚が失われた現在では一対で残る塚は長野県でも希少な存在です。
北信五岳の一部と田園風景。昔の人もこのような風景を見ていたのでしょうか。道端の草むらには野仏、珍しく千手観音の足下に三猿が彫られています。馬頭観世音なども此処に集められたのでしょう。
登ると大変ですが、下りなのでラクチン。「牛落し(うしおとし)の坂」牛が転げ落ちるほどの急坂といわれた難所。新道と旧道があるのでもちろん旧道を通ります。
新しい牟礼宿の碑。しなの鉄道(旧信越線)のガードをくぐり左に曲がります。(宿場出口、入り口?の桝形)
北信五岳の一つ飯綱山は、古くから修験道の霊山として栄えてきました。変幻自在の天狗・飯縄大明神は不動明王の化身ともされ、戦国武将から守護神として崇敬。上杉謙信は兜の前立てに飯縄明神像を、武田信玄も甲州に勧請、持仏として身に付けていたという。その天狗を街灯の上にあしらっています。
宿場の中ほどに「古間鎌」の問屋をしていた山本家は幕末の建築で本卯建を揚げる。(お化粧直しの跡が見える)
ここでは、[問屋制家内工業]形態の問屋が,家内工業をいとなむ手工業者に資金・原料・道具などを貸しあたえ,生産を行わせる工業の形です。
宿場の中心部を通る十字路に脇本陣(近所の方に聞くと宿屋もやっていたそうです)目印になるもの一切ありませんでした。筋向いの角には「本陣跡」の碑場所は駐車場になっており、説明板が設置されています。
宿場中央を流れていた宿場用水(海野宿を参照あれ)は両側に寄せられているが、大きな鐘楼門のある「清水山龍宮院徳満寺」境内を徳満寺堰の水が滔々(とうとう)と流れています。
牟礼宿の突き当りが「髻山證念寺」左に向かう桝形の先には十王堂。この急坂を「十王坂」といいます。坂上の桜の古木から下を覗けば一服の絵になります。寺の石垣は「ぼたもち石」と呼ばれる大きな丸石と組み技術は北信地方で見られる石組みで、弘化4年(1,847)の善光寺地震でも崩れなかったそうです。
「十王堂」とは死後の世界をつかさどる十人の王をまつったお堂。 泰広王(不動明王)・初江王(釈迦如来)・宗帝王(文殊菩薩)・五官王(普賢菩薩)・閻魔王(地蔵菩薩)変成王(弥勒菩薩)・太山王(薬師如来)・平等王(観音菩薩)・都市王(勢至菩薩)・五道転輪王(阿弥陀如来)十王とは私たちが亡者になって仏様の世界に入って行く時、 生前の罪業の軽重を裁判し次に生まれて来る世界を決定する冥土の十人の裁判官である。そして、亡者は供養によって、これらの仏様に救われて仏界に送られるという。堂と十王石仏は明治天皇北陸巡幸のとき一時撤去され、平成2年(1990)旧地の斜向かいに再建されました。十王の他に奪衣婆(三途川で亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼。一説に閻魔大王の妻)も祀られています。
新道に出てしばらくすると左の小高い所に「臨川山観音寺」石段を上がると両脇に通常なら街道筋に祀られる石仏や庚申塔がここに集められたのでしょう雑然と置かれていました。庚申塔に彫られた「青面(ショウメン)金剛」ここにも「三猿」が彫られています。
道に戻ると前は三叉路、標識に従って右のきつい坂を旧街道に足を向けます。程なく右手に「金附場(かねつけば)」跡の平らな広場があります。以前はもっと広かった(300坪)そうですが川の浸食で狭くなったようです。北國街道の一つの任務は佐渡の金銀を江戸に運ぶこと、もう一つは無宿人を佐渡へ送ること。ここは中継地であり新しい馬に付け替えた広場の跡。
小玉道中堺碑(武州加州道中堺)この地点は江戸(武州=武蔵国)と金沢(加州=加賀国)をむすぶ北国街道の道程のちょうど中間にあたることから、加賀の大名前田家が建てた道程であるといわれ、碑には次の文字が刻まれています。
武州
加州 道中堺
建立年代は江戸時代初期と推定される。
伝承では、前田候は参勤交代の往復でここに到着すると、江戸屋敷と金沢城へ早飛脚を立てて旅の無事を知らせたといわれています。
傍らには真龍院歌碑があります。真龍院こと鷹司隆子(一七八七~一八七○)は関白鷹司 政熙(たかつかさまさひろ)の息女であり、加賀藩主第十二代前田斉広の正室である。
江戸から加賀国金沢への生涯初の長旅の途中、旅程の中間に至った感慨を詠んだ歌の碑があります。ちなみに、碑文は出自を同じくする善光寺大本願上人鷹司誓玉大僧正の揮毫であります。
住みすてし 跡の名残を 思い出の
そでに露そふ たびの中道
先の新道を斜めに横切り新道の隧道をくぐる手前に、「加賀藩小玉小休所」があります。安政3年(1,856)から加賀藩の藩主小休所になった黒柳家です。幕末には「本陣」と呼ばれていたそうです。個人宅なのでそぉーとお庭を写させてもらいました。
隧道をくぐり、跨線橋を渡りヤヤコシイ道をともかく旧北國街道と思しき道を歩きます。すぐ高札場がありました。正式な高札場かは疑問ですが、現代風に書かれた「定(さだめ)」です。
少し行くと右側の越後松平家の家臣田宮春則が出家して開基したと伝えられる「玉蓮寺」があります。寺紋は三ツ葉葵。徳川家康の位牌をまつっています。
いよいよ、この先北國街道で軽井沢の碓氷峠に次ぐ難所「小玉古道」です。「美しい日本の歩きたくなるみち500選」の一つを歩きます。
こんにちは
昔の街道は私のような暇人が歩く以外、生活道路としては殆ど機能していません。私も以前は新しく開けた新道を通り過ぎるだけでした。
最近は、地元の心ある人たちが保存に汗を流していらっしゃいます、有難いと思います。
古いものを大事にすることは文化のバロメーターだと常々思っています。
おはようございます ☆彡
いつもお写真拝見しながらウチも周りと似たようなのどかな雰囲気だなぁと思います
でも それも一瞬パッと見のことでもう一度見るとやっぱり全然ちがう 信州ってこんな感じなんだとしみじみ思ってます
だいたいこんなにお寺もお地蔵さんも多くないですからね
山もやる気のない山ばっかりです
道沿いにクルミの木なんてのもありませんし
もちろんリスは動物園でしか見たことないですよ
クルミは最近人に教えてもらうまで全くわかってなかったのですが
殻付きクルミとして売られてるあの状態で木に成ってるものだとばかり思ってました
多分 こっちの人間のほとんどはそう思ってるはずです
銀杏みたいにぶじゅぶじゅの実があって その中の種が殻みたいなものだったのですね。。
いつかてれんこぱれんこしながら クルミの木の下を通ってみたいものです
こんにちは!
四方が山に囲まれた山岳県の信州はどこへ行くにも一山越えなければなりません。
子供の頃からそこに山があるから登り、山の恵み山菜、キノコ、クリなどの木の実を採るのが当たり前でした。
ウォールナッツとして売られている菓子ぐるみは栽培種。山にあるオニグルミや姫グルミは自然からの贈り物。
殻はかなづちで割らないとダメで実を出すのも一苦労。美味しさは菓子ぐるみより上。
私のブログもてれんこぱれんこしながら 書いていこうと思います。( ^^) _U~~
すごく大変そうな道ですね。
上り坂が多くて石碑が多いところみたいです。
私もこういう場所は嫌いではありませんが、なんだか途中で疲れそうです。
でもスマホのカメラを片手に歩いてみるのもいいかも知れませんね。
お早うございます。コメント有り難う❣
旧街道を昔の人は草鞋で歩いた道を今は快適なスニーカーなどで歩けます。私はどこまでと目的地を決めていないのでゆっ――――くり歩いています(^^♪
最近まで重いカメラ(計ってみたら1,253gありました)でしたが、埃をかぶっていた軽いカメラを引っ張り出して持ち歩いています。
カメラは人を選ぶのでしょう、ちぃ――――とも上手くなりません(>_<)
茅葺職人と萱の減少でいたしかたのないことなのでしょう。
千手観音の下に三猿とは珍しい石仏ですね。
こんにちは
返信したつもりが、「返信」をポチッとしなくてごめんなさい。
このトタンで覆われた民家も見納めになる日も遠くはないと思います。
シーホースーY さんの言う通り茅葺きの技術を持つ人も仕事がなければ宝の持ち腐れ、技術を受け継ぐ人もおりません。白川郷のように「結(ゆい)」の制度もありません。
千手観音が彫られていますが「庚申塚」です。「申」は干支の猿に通じ、目、耳、口をふさいで悪事を天帝に告げないように彫ったのでしょう。
昔の人は自由に発想し、庚申塚の文字だけのもの、青面(せいめん)金剛像や鶏(雌雄二鶏)を彫ったものなど時代や所によってその形態は多種多様です。
石造物だけでも驚きました。
お早うございます。
古い文化遺産とでもいえる昔の庶民の暮らしぶりを、無くなる前に少しでも見ておきたいと思っています。
拙い文ですが、辛抱強く読んで頂けたら有り難いです。
詳しいルート図や解説を付けて頂き大変参考に
なり、想像行脚を楽しんでいます。
”一茶の句の「万物にやさしい」のは「悲しみ」
(母や子の死別、貧しさ、生い立ち)の土台の上に
築かれているからなのでしょう”~納得です!
おはようございます!コメント有り難うございます。
長いブログ読んで頂けてうれしいです。車では傍を何十回となく通っているのにこのような事物が残っていることに全く気付きませんでした。
柏原宿では一茶の生家のある所ですから、俳句のオンパレードになるやもしれません(^_^)
に嫌気がさして、ようすが良い若い青鬼に乗り換えたまでは良かったのですが、青鬼に稼ぎがなく
自由に使える金銭もないので、繁華街で「Bar 婆ぁ」の看板を出して生計を立てたようですが、素人の
やること、クチが上手な客に騙されて売掛金回収を遣り損ねて、ただいまあの世からこの世へ生き返り
細々と生活しているらしい・・・てな話もあるようです。
現世では最近奪衣婆ならぬ、奪衣若者がジジババの衣類を剥ぎ取っている時代になりました。
そのような若者(オレオレ詐欺などしている)は冥土でどのような仕打ちを受けるでしょうか。
ぎ~やん さん言う通り、一説にはその不埒な若者は奪衣婆の生まれ変わりと言われています。
(-_-)/~~~ピシー!ピシー!