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ゆっ~くり道草北國街道を歩く-27

姨捨山人さん
姨捨山人 さんのブログ[カテゴリ:寄り道散歩
2021.7.18 20:21

 くねくね曲がった坂道を登ります。足の下を国道のトンネルが通っているのは不思議な感覚です。「野尻坂峠」のてっぺんで、黒姫と妙高の雄姿を撮ろうと思いましたがご覧のような雲。ザンネン梅雨時だからしょうがないか。

 写真の反対側は撮ってはありませんが、長範山(ちょうはんやま)。大泥棒の熊坂長範の出身地であります。
長範山を関川宿から撮りました。本陣の庭園の借景にも利用されています。

 峠を越え下り坂、ラクチンです。程なく国道のトンネル出口と合流します。「新潟県へようこそ」の看板。気が早いです未だ長野県です。


 合流した国道を下ります。新潟上越市の「高田宿」までは多少の起伏はあるものの殆ど下り坂です。如何に長野県側の標高が高いかが分かります。県境の「信濃大橋」の写真を撮り忘れ、橋のたもとを右折、旧18号線の急こう配を下ります。ここは信濃大橋が出来る前は、降雪や路面凍結などによるトラブルが頻発する難所でありました。特に長野県側の赤川スノーシェッドではヘアピンカーブ・急勾配・幅員狭小により交通障害が多く起こっていたところを下ります。
スノーシェッド赤川1号、2号の中は大きな車が通るとゴォーと蛇腹に反響して歩行者は身が縮む思いです。


 スノーシェイドを抜けると道端に「馬頭観世音」この難所を荷を積んで越えるには馬は欠かせなかったでしょう。旧国道を気を付けていないと北國街道と別れる道を見過ごします。先へ行くとまた合流はしますが。少し下ると「赤川一里塚跡」うっかり道を見過ごした人は見れません。

 「赤川一里塚跡」の標柱がなければ分からない状態で、草むらから石積が少し見えます。写真の左上の建物は一茶の最初の妻「菊」の実家です。塚は右側の片方だけしかありませんでした。


 柏原宿で句碑になかった早逝した菊との間の子供を詠んだ句を紹介しておきます。
   蚤(のみ)の跡
        かぞへながらも
             添乳かな
   せみなくや
      つくづく赤い
           風車
   陽炎や
     目につきまとふ
          わらひ顔
 赤川集落の中なのでしょうか、「赤川神社」があります。石段の下には石仏、狛犬の代わり然と鎮座しています。本殿というより石の祠でした。


 間もなく県境です。合流した旧国道18号線の関川に架かる一之橋が県境です。橋手前の旧北國街道へ右に曲がります。厳密にいうと一之橋を渡るのも旧北國街道です。

 関所の駐車場に案内板があり一寸方言が面白い(越後弁なのか、上越弁なのか定かではありません)ので載せておきます。意味が分かるでしょうか?

 歩くこと一分関川に架かる「関川御関所」の看板の先の太鼓橋を渡ります。橋を渡ると坂道になります「姥坂」と言われ、姥とは「奪衣婆」のことで、先の善光寺を「阿弥陀浄土」、関川を「三途の川」に見立てたのが名の由来だそうです。



 またこの坂は急坂の為、重い荷物を運んでもらう人足がいて、運んでもらう駄賃が五文だったため「五文坂」とも言われていました。坂の途中に石仏、どう見ても「奪衣婆」に見えてしょうがありませんでした。

 坂を上りきると「関川関所跡」。跡というよりイベント会場、昔の関所跡の面影を求めて右往左往。何故か関所前に「金さん銀さん」の像。



 関所跡を出た街道の前に、「北林山浄善寺」当山第五世住職釋恵天(俳号指月)は小林一茶の門弟となり、京都本山より住職の階位昇格を祝って一茶自ら俳句を作ったのがこの句です。
指月上人の位階上りけるを祝して
   いたれりや
      佛の方より
          花衣


 関所を離れ、北國街道関川宿、上原宿をぶらぶらします。すぐ「加賀藩関川宿本陣跡」高田藩から百石の知行を与えられ、九つの大名の本陣として利用されましたが明治期に火災で焼失、庭園(池泉式庭園)だけが残されています。


 本陣の大石家には御巡幸の明治天皇もお泊りになっています。跡地に「明治天皇関川行在所阯」の石碑だけが往時を忍ばせます。
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