姨捨山人 さん
姨捨山人さんの投稿
ゆっ~くり道草北國街道を歩く-28
関所に隣接して関川宿と上原宿があり、この二つの宿は村が異なるだけの連続した宿で問屋業を半月交代で務める合宿でありました。その「上原宿問屋跡」。越後高田藩の本陣を兼ねた豊田家の建物は昭和の時代に取り壊されてありませんが、重厚な石垣や銀杏の大木は今でも当時を忍ばせます。上原宿の大火の際この大きな銀杏の木が火災から建物を守ったと言われています。銀杏は拾われず落ちたまま。
少し上り坂になりますが、本陣と同じ「池泉式庭園」の元旅籠の「ろうそく屋」当時の建物はありませんが、旧家に相応しい来歴を持つ庭園があります。特に8畳ほどもある平らな庭石を中心に巨石が多用され、運搬には近隣の宿場から多くの人達が動員されたそうです。
暫らく坂が続きますが、坂を上り切った所には、「親鸞聖人袈裟懸けの松」があります。佐渡に流された上人が妻子を伴って江戸に向かう途中松の木に袈裟を掛けて休んだという伝承があります。関川天神社の入り口に親鸞堂と三代目の松が植えられています。御堂内部は暗く上手く映せませんでした。
奥の「天神社」の前には天然記念物の「大杉」樹齢千年と推測されています。親鸞の袈裟懸けの松を凌駕しています。
堀口大学は妻の生家に疎開していたこの地で、こんなことを書いています。
「天神社の老杉の下で遅くまで仮装の若い男女が踊るすがたが、おりからの霧に包まれて何とも美しいことでした…」
坂を下る途中に「星野公園」がありますが、入り口を通り過ぎたようです。仕方なく、日本で唯一つの「スキー神社」から登りました。社殿正面にスキー板が模られ(かたどられ)ています。
すぐ横には、「薬師堂」鎌倉時代の作とされる「妙高薬師」が祀られていますが、写真を撮るのを忘れました。池にはスイレンが咲き、この地方の空き地には何故か「ネジバナ」が群生しています。御多分に漏れずここにもネジバナが一杯。
起伏の激しい旧国道と北國街道が並行している道、だらだら坂を上りますが街道の面影はありません。やっと見つけたのは「神明神社」村の鎮守様でしょうか。参道には神と人とを分ける、小さな太鼓橋。三本杉の中心に「大願成就」石碑どんな願いが叶ったのでしょう。
2、3分下った右側に「清き泉」前田家は代々参勤交代の際この泉で身を清め、毛祝坂神明神社に参拝し、関川関所に向かったと言われています。前田家は前後百九十余回の参勤交代で通行するたびに参拝を欠かせなかったという。
道には紅白のスノーポール。少しキツイ下り坂をテクテク。この坂を「毛祝坂(けわいざか)」といい街道の難所です。越後から関川の関に向かう旅人は此処で身なりを整えたそうです。毛祝は化粧(けわい)に通じ、気祝坂・毛祝坂・芸息坂など全国にこの地名が見られます。
街道から少し入った妙高北小学校の南西隅に「田切(旧跡)北國街道一里塚」の標柱がありますが、近くを流れる「深沢川」の北側にあった塚がなくなり、ここに標柱を建てたようです。
妙高山に源流を発する「白田切川」温泉成分で白濁した水が流れる「白田切橋」を渡り、坂を上り詰めると街道は直角に曲がり下り坂になります。桝形入り口には江戸中期の「馬頭観音」と聖徳太子碑が建つ。
田切宿の中心に入っていきます。「田切宿」の標柱を横目で見ながら進むと、小さな社「神明宮」と「諏訪社」が並祀されています。昔から田切宿の人達を静かに見守っているのでしょう。
しばらく行くと右手に一里塚に似た「筆塚」がありました。ハルニレ(エルム)の木と聞いていましたが、「榎(エノキ)」はしばしば一里塚などに植えられているので、実際に木肌など見てみるとどちらか迷います。
5分ほど下ります。「田切古道入り口」の標柱。旧北國街道を歩く身としては行かないわけにはいきません。是が運の尽き。道らしきものは微か、川(郷田切川)を渡った先に道らしきものはなく、傾斜のきつい土手の草を掴みながら登ります。
その先は背丈程の草むらを道なき道を登るのですが、腕はひっかき傷、地面は水が染み出てぬかるみ、やっとの思いで街道に出ました。
出た街道には「二俣古道入り口」の標柱。片や「田切古道入り口」どうなっているのだろう。でも勘で通った古道は間違いではなかった様です。
古道の途中の川を渡った先は間(あい)の宿の「二俣宿」。「二俣宿」の標柱の下方には簡単な説明文が書かれています。
その先の空き地に「明治天皇二俣御小休所阯」の石柱と隣に「畑山隆治先生之碑」。ここは嘗て「二俣脇本陣」問屋を兼ねていた「畑山家」の庭でありました。
2分も歩かぬうちに「富坂山西蓮寺」開基は宗祖親鸞聖人の弟子西祐(平家の武将・桃井上総介義衡)であります。現住職の姓もまた「桃井」でありました。
小刻みに昔の面影が現れます。三角形の池に水が貯えられ、昔は二俣宿の馬をすべて洗えるほど大きかった「馬寄せ場」防火の役目も担っていたようです。
雪国とはいえ、長野県の古間宿あたりから街道筋の至る所に赤いのっぽの消火栓。2mくらいあります。
「大田切川」の手前に14基の「二俣五輪塔群」。上杉謙信が跡目を決めず急死した為、越後を二分する跡目相続の内乱で亡くなった無名戦士の墓であります。
国道18号線の大田切川に架かる「妙高大橋」の南詰に「大田切石仏群」の祠があります。大田切越えは越後の北國街道では一番の難所で遭難者も多く、橋をかける際出土した石仏を安置したものです。
旧街道の田切川は深い浸食谷で、この地形を「田切」といい、凹字型の谷です。旧街道を通ろうとしたところ橋の工事中で通行できませんでした。仕方なく妙高大橋を渡り、反対側の街道を下って新潟県名水十五の一つ「大田切清水」を見学、下りは楽ですが後先考えず登りを考えていません。水場の上に「馬頭観音」が祀られていました。
このシリーズずっと拝見させていただいていますと馬頭観音をお祀りされて
いるのが結構多いように思います。
やはり当時は家畜も多かったでしょうし長旅には馬車を使うこともあったでしょうから
そういうことからあちらこちらで祀られていたのかしら。
そんな風に感じましたが。。。
余談ですが。。。
私がかすかに覚えているのですが、多分5~6歳ころだったと思います。
田舎でしたから当時は車などなくて、馬車が荷物を運んでいました。
一番記憶にあるのがお隣にお嫁さんの荷物が運び込まれたときも馬車でした(^▽^笑)
こんばんは。御読み頂き嬉しいです。
新潟から長野へ来るには険しい山坂が沢山あります。重い荷物を運ぶには馬が必要っだたと思います。街道筋には沢山の「馬頭観音」があります。大事にして感謝もしていたと思います。
私も小さい頃、母の実家に馬がいて、農耕や荷物運びに使っていました。毛並みを整えたりして大事にしていたのを覚えています。
昔のことを思い出させて頂き有り難うございます。
こんばんは。
一人歩きだと見逃している所が多々あります。後になって悔しい思いもしています。
石仏でも、長い年月には劣化もするでしょうし、保存するのは大変なことと思います。
旧街道なども新しい道が出来ると、利用されなくなり、廃道の憂き目にも逢います。
街道筋で「古道」などと謳っていますが物好きな私達しか通らない道もあります。
老い先短いですが、街道歩きをして何か得るものがあるといいと思っています。
明日も良い一日でありますように!
標識がとてもしっかり整備されているんですね、素晴らし。
私の住んでる横浜で、旧東海道のいろいろを表示するのを少しお手伝いしたことがありますが、なかなか大変なモノ、素晴らしい標識ですね、それと矢張り石造物、しっかり保存されてますね。
宿場の本陣などだったところの庭園もなかなか素晴らしいものですね。
我が家近くの旧東海道、やや痕跡が当時を思わせるのは、一里塚がたった一つで、他に近いところの一里塚、標識だけになってしまってます。
こんばんは いつもコメント有り難うございます。
此方でも一里塚など片方だったり、標柱だけのところもあります。
私の投稿が、史跡など残っている所だけ紹介していますが、宿場宿場にある本陣、脇本陣、問屋など跡形もない所が沢山あります。
街道を歩いていると、熱心に保存している所と、見向きもしない地区もあります。
何とか記録だけにも残しておきたいです。
私なぞ、見るだけで保存のお手伝いも出来ないのが恥ずかしい。