姨捨山人 さん
姨捨山人さんの投稿
ゆっ~くり道草北國街道を歩く-30
関山は大きな宿場でありましたが、松崎・二本木宿は二宿合わせても半道(2km)程でしたが、実際は町続きで半月ずつ宿場の仕事をする合宿でした。
早速、「此れより松崎宿」の標柱。しばらく歩くと村の鎮守様でしょうか「若宮社」、社が倒れないようにつっかい棒がしてありました。
先を急ぎます。妙高はねうまライン(旧信越本線)の「北國街道踏切」を越えていきます。「妙高はねうま」の由来は妙高山の雪形が前足を跳ね上げた馬の形から名付けられました。
しかし実際には、妙高山の外輪山である「神奈山」の中腹に現れる雪形であり、昭和初期までは馬ではなく角の生えた牛形と言われていました。農作業の目安にされていたのでしょう。
5分ほど歩くと民家のわきの空き地に石をくり抜いた祠に「馬頭観音」が祀られています。この辺りの馬頭観世音の祀り方が独特のような気がします。よほど大事にされているようです。
踏切を渡ると右手に「竹田山安楽寺」。松崎・二本木宿には本陣がなく寺である安楽寺がその役目を担っていました。信濃源氏の分かれである「竹田浄貞」が、信濃国水内郡に安楽寺の初めの道場を営んだと言われています。
今は、本陣の面影はなく庫裏は克雪住宅に変わっています。
もう知らぬ間に二本木宿に入ったのだろうか、電柱に「二本木」の名が見えます。比較的こじんまりとした「白山神社」境内に高さ2m余り、直径35cmの円柱が立っています。宿場は人の出入りが激しく、休泊の為火を使う事が多かったので、取り締まりも厳しかった。
円柱にはこう刻まれています“是従内、口附無之、小荷駄乗通るべからず。邑の内、咥きせる無用二本木宿”(二本木宿に入ったら、綱を放して、小荷駄の者{荷物を馬につけて通る者}は馬に乗って通ってはならない。村内はくわえきせるをするな)
街道筋の道は現在よく整備されていますが、昔は険しい段丘の道だったのではないかと想像される場所を通ります。消雪パイプの道は地下水の鉄分の影響で褐色に染まっています。
街並みは深雪地帯特有の前側が雪下ろしを必要としない、又、道側に落雪しない様に切り立った「落雪式屋根」。一階が雪に埋もれても大丈夫なように高床式三階建て住宅が多くなります。
街道の小高い丘の上に「神明神社」がありましたが、地区の人でも余り参拝したような形跡のない社でした。
二本木駅手前に前と同じ名の踏切「北國街道踏切」。二本木駅は急こう配の為スイッチバックの駅です。南隣の関川駅も昭和の終わりごろまでは国鉄信越線のスイッチバックの駅でした。
二本松の街並みを外れ田園風景の道を行きます。標識も何もない「藤沢一里塚」。街道が掘り下げられた為、東塚は一段高く見えます。西塚は消滅してありません。
少し下り坂を行くと道は二股に分かれます。たまたま道に居た老人に聞いたところ、左が北國街道との事。少し行くと上り坂になりました。
この辺りを「板橋新田」といい、藤沢村の子村として後に出てくる「春日新田宿」の馬市で売買する馬喰(ばくろう)が利用する馬宿が7軒もあったそうです。
そのせいでしょうか、馬宿で栄えた街道の両側には覆屋や石祠に祀られて「馬頭観世音」が先の小出雲坂の峠まで沢山みられます。馬に依存していた昔の生活がうかがえる場所でした。
小出雲坂の峠には松並木があったそうですが、今は桜並木にとって変わられています。この坂を最後に南進する旅人にとっては高田平野と別れることから「越後見納めの坂」と呼ばれ、小唄や甚句に登場します。
峠を下ったところに「加茂神社」があります。加茂神社社号石柱の反対側に「一視同仁」の石柱。意味が分からず後日調べたところ「だれをも差別せず、すべての人を平等に見て一様に仁愛をほどこすこと」とありました。
街道に面して湧き水があり「手水舍(てみずや、ちょうずや)」として利用されています。名水として地域の人々からも利用されています。
小出雲(おいずも)交差点を通り、渋江川の「辻屋橋」を渡り新井宿へ向かいます。昔の街道を訪ねる旅ですが、現在の様子も余計ごとかも知れませんが織り交ぜています。
コメント