姨捨山人 さん
姨捨山人さんの投稿
北國街道東脇往還(松代道)を歩く➝川田宿へ
前回も街道の道筋がごちゃごちゃになり、読んで頂いた方の脳もごちゃごちゃにしてしまいました。今回からぶらぶら歩きも正常に戻しますが、私のこと、いつ脱線するか分かりません。ご勘弁ください。
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街道に戻り、前回訪れた「萬法寺」前から出発します。寺尾公民館前に「猿田彦大神」の碑。この先の道案内をお願いしました。
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「蛭川橋」を渡ると、右側の山裾には行く先々に石像、石碑、お堂が現れます。水害の多いこの地方では石柱の高い位置に祠があるのでしょう。
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並んだ石碑の横にある急な石段を上がると「愛宕社」、その先には「寺尾城址」。石段が登山口になるので登る気がせず石段隣の地蔵堂にお参りしスルー。
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しばらく歩くと右手に細い山道があり角に「供養塔」(初め見た時は笹竹に覆われていました)があり、笹竹を踏みつぶし(人が見ていたら不審に思うでしょうね)、辛うじて見えるようにして写真を撮りました。
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見ると供養塔の側面が「道標」になっていました。「右川田驛道・中柴弥陀道・左善光寺道」と刻まれていましたので本来の松代道はこの山道だと分かり登り始めました。最初は舗装がしてありましたが、すぐ未舗装の山道。山の斜面には所々に庚申塔があります。
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途中に大きな髭題目(名号碑)があります。この場所は「松代藩刑場跡」で、慶長7年には検地に反対した一揆の首謀者達多数を磔(はりつけ)、その後「二斗八升騒動」で3名、午札(うまさつ)騒動(松代騒動)で明治3年首謀者甚右衛門が斬首の刑を受けたところです。
うす暗い山中で一人この場所に立つと背筋がゾクッとします。
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――住民の困窮を救わん為、自らの命を捧げた人々、いわゆる義民と言われた人達、「青の洞門」を代表とする十年二十年の歳月をかけトンネルを掘たり、険しい山の岸壁に水路を掘ったりした人々、餓死までして来年の種籾を守った人。私の歩いた街道のあちこちの寺や神社にその記録の痕跡を見ることが出来ます。そしてそれらを語り継ぎ守っている地元民の篤い信仰心を垣間見ます――
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本来の街道にある「可候峠(そろべく)」を越えていく先はアリのはい出る隙間もない交通止め。仕方なく左の農林道を越えていきます。長野県で一番低い峠(鳥打峠)へも行けます。峠を越えたところには「松代農業大学校」、写真には写っていませんがはるか向こうにはお寺の屋根が見えます。
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畑の間の道をトボトボ歩き、ここは松代のはずれに近いお寺さん「大瀑山禅福寺」に着きました。山門は開かず脇を通ります。初代藩主信之の次女まさ(見樹院)が再興の祖である為、屋根のあちこちに六連銭が光って見えます。
崖下から湧き出る水は青みを帯びた美しい池です(下手な写真にはその美しさを表現できませんでした)。六地蔵の前には富山の「穴の谷霊水」が供えられていました。心がないとこういう事は出来ません。
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上信越道のガードをくぐり、しばらく街道筋の住宅の中を進みます。右手に家2,3軒分の開けた場所、向山(頂上には霞城跡があります)の崖下に石仏群があります。昔はこの辺りに寺院があったかもしれません。
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街道の右側の角々に「大室古墳群ノ聚落入口」の看板や石柱がありますが無視して、先へ行きますが、最後には大室古墳へ行くことになります。ほとんど病気です。
左側に「高井大室神社」鳥居の左右には大きな道祖神や庚申塔の石碑があります。山は右側にありますが、神社の裏も小高い丘で千曲川側にある奇妙な丘です。地元では「離山」と呼んでいます。
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少し遠くなりましたが、「大室古墳」へ2kmの道を登ります。再び上信越道のガードをくぐると直ぐ目の前に古墳群が現れます。
何十回となく上信越道を往復していてもこの古墳に気が付きませんでした。如何に足で歩かないと見えてこない物があるのを実感しました。
私が歩いてきた霞城崖下の石像群辺りから大室古墳を中心にいくつかの谷筋に古墳があるようです。古墳時代中期に造られた総数500基の群集墳です。
この古墳の最大の特徴は積石塚・合掌型石室という全国的にも珍しい古墳が集中して存在することです。一般に土を盛り上げて墳丘を形づくる古墳に対し、土の代わりに石を用いた古墳を「積石塚」といいます。
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墳墓の中には少数ですが、土石混合墳、盛土墳もありますが、ほとんど石積塚です。初めは「合掌型石室」です。
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「竪穴式石室」
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ちょっと見には円墳に見えますが、「土石混合墳」。
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この墓の住人達はどこに住んでいたかはっきり分かりません。住居跡が発見されていないからです。古墳群から市内を見渡せば丸いドームの冬季オリンピックホッケー会場の「ビッグハット」が見えます。
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大室古墳から元の街道に戻り、川田宿へ向かいます。途中松代街道に沿って走っていた河東線の廃トンネル跡。車社会によって時代の流れとはいえ、廃線の現状を見ると寂しさを覚えます。
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トンネルの上には旧街道の「関崎峠」があるはずですが、街道整備がされていないのか登り口が分かりませんでした。
間もなく新道の国道403号線に合流、千曲川の川岸には松代藩七渡しの一つ「関崎の渡し」に昔を忍ぶ常夜灯、水天宮、亀岩堤防記念碑が残されています。今は立派な永久橋「関崎橋」が架けられています。
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街道の反対側には、「こちらが川田宿ですよ」と招き入れる看板が立っています。旧街道に入ると右側に「町川田神社」があります。岡崎の渡しの常夜灯そっくりなものが境内にあり、誤って渡し場で千曲川に落ちましたが助け上げられたのを神仏のご加護と感謝して寄進した常夜灯だそうです。
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最後まで辛抱強くお読み頂き有り難うございました。
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街道に戻り、前回訪れた「萬法寺」前から出発します。寺尾公民館前に「猿田彦大神」の碑。この先の道案内をお願いしました。
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「蛭川橋」を渡ると、右側の山裾には行く先々に石像、石碑、お堂が現れます。水害の多いこの地方では石柱の高い位置に祠があるのでしょう。
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並んだ石碑の横にある急な石段を上がると「愛宕社」、その先には「寺尾城址」。石段が登山口になるので登る気がせず石段隣の地蔵堂にお参りしスルー。
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しばらく歩くと右手に細い山道があり角に「供養塔」(初め見た時は笹竹に覆われていました)があり、笹竹を踏みつぶし(人が見ていたら不審に思うでしょうね)、辛うじて見えるようにして写真を撮りました。
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見ると供養塔の側面が「道標」になっていました。「右川田驛道・中柴弥陀道・左善光寺道」と刻まれていましたので本来の松代道はこの山道だと分かり登り始めました。最初は舗装がしてありましたが、すぐ未舗装の山道。山の斜面には所々に庚申塔があります。
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途中に大きな髭題目(名号碑)があります。この場所は「松代藩刑場跡」で、慶長7年には検地に反対した一揆の首謀者達多数を磔(はりつけ)、その後「二斗八升騒動」で3名、午札(うまさつ)騒動(松代騒動)で明治3年首謀者甚右衛門が斬首の刑を受けたところです。
うす暗い山中で一人この場所に立つと背筋がゾクッとします。
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――住民の困窮を救わん為、自らの命を捧げた人々、いわゆる義民と言われた人達、「青の洞門」を代表とする十年二十年の歳月をかけトンネルを掘たり、険しい山の岸壁に水路を掘ったりした人々、餓死までして来年の種籾を守った人。私の歩いた街道のあちこちの寺や神社にその記録の痕跡を見ることが出来ます。そしてそれらを語り継ぎ守っている地元民の篤い信仰心を垣間見ます――
[画像は削除されました]
本来の街道にある「可候峠(そろべく)」を越えていく先はアリのはい出る隙間もない交通止め。仕方なく左の農林道を越えていきます。長野県で一番低い峠(鳥打峠)へも行けます。峠を越えたところには「松代農業大学校」、写真には写っていませんがはるか向こうにはお寺の屋根が見えます。
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畑の間の道をトボトボ歩き、ここは松代のはずれに近いお寺さん「大瀑山禅福寺」に着きました。山門は開かず脇を通ります。初代藩主信之の次女まさ(見樹院)が再興の祖である為、屋根のあちこちに六連銭が光って見えます。
崖下から湧き出る水は青みを帯びた美しい池です(下手な写真にはその美しさを表現できませんでした)。六地蔵の前には富山の「穴の谷霊水」が供えられていました。心がないとこういう事は出来ません。
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上信越道のガードをくぐり、しばらく街道筋の住宅の中を進みます。右手に家2,3軒分の開けた場所、向山(頂上には霞城跡があります)の崖下に石仏群があります。昔はこの辺りに寺院があったかもしれません。
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街道の右側の角々に「大室古墳群ノ聚落入口」の看板や石柱がありますが無視して、先へ行きますが、最後には大室古墳へ行くことになります。ほとんど病気です。
左側に「高井大室神社」鳥居の左右には大きな道祖神や庚申塔の石碑があります。山は右側にありますが、神社の裏も小高い丘で千曲川側にある奇妙な丘です。地元では「離山」と呼んでいます。
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少し遠くなりましたが、「大室古墳」へ2kmの道を登ります。再び上信越道のガードをくぐると直ぐ目の前に古墳群が現れます。
何十回となく上信越道を往復していてもこの古墳に気が付きませんでした。如何に足で歩かないと見えてこない物があるのを実感しました。
私が歩いてきた霞城崖下の石像群辺りから大室古墳を中心にいくつかの谷筋に古墳があるようです。古墳時代中期に造られた総数500基の群集墳です。
この古墳の最大の特徴は積石塚・合掌型石室という全国的にも珍しい古墳が集中して存在することです。一般に土を盛り上げて墳丘を形づくる古墳に対し、土の代わりに石を用いた古墳を「積石塚」といいます。
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墳墓の中には少数ですが、土石混合墳、盛土墳もありますが、ほとんど石積塚です。初めは「合掌型石室」です。
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「竪穴式石室」
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ちょっと見には円墳に見えますが、「土石混合墳」。
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この墓の住人達はどこに住んでいたかはっきり分かりません。住居跡が発見されていないからです。古墳群から市内を見渡せば丸いドームの冬季オリンピックホッケー会場の「ビッグハット」が見えます。
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大室古墳から元の街道に戻り、川田宿へ向かいます。途中松代街道に沿って走っていた河東線の廃トンネル跡。車社会によって時代の流れとはいえ、廃線の現状を見ると寂しさを覚えます。
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トンネルの上には旧街道の「関崎峠」があるはずですが、街道整備がされていないのか登り口が分かりませんでした。
間もなく新道の国道403号線に合流、千曲川の川岸には松代藩七渡しの一つ「関崎の渡し」に昔を忍ぶ常夜灯、水天宮、亀岩堤防記念碑が残されています。今は立派な永久橋「関崎橋」が架けられています。
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街道の反対側には、「こちらが川田宿ですよ」と招き入れる看板が立っています。旧街道に入ると右側に「町川田神社」があります。岡崎の渡しの常夜灯そっくりなものが境内にあり、誤って渡し場で千曲川に落ちましたが助け上げられたのを神仏のご加護と感謝して寄進した常夜灯だそうです。
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最後まで辛抱強くお読み頂き有り難うございました。
それにしては観光の対象にされることもなく、霊たちは静かに眠ってますね。
私も知らないことばかりで、年老いて役には立ちそうもありませんが、学びながら歩くのを楽しみにしています。
読んで頂いている方の身にもならないたわごとを書いているのが、私自身気が引けています。
感心しました。
自分では進歩のないブログだと思っています。これを機に少しでも皆さんに認めてもらえるような投稿になるよう頑張ります。
下手なブログですが、これからも読んで頂ければ嬉しいです。
大室神社ですか、すごい鳥居ですね、是非一度眺めたいもの、そんな気持ちで,拡大して何度も眺めさせていただきました。
街道歩きがいつも脱線してしまい、この年になって多動性障害(ADHD)ではないかと疑うようになりました。
余り縄文、弥生、古墳時代のことは詳しくありませんが、石を積み上げた古墳は珍しいと思って余計な所まで行ってしまいました。