姨捨山人 さん
姨捨山人さんの投稿
北國街道東脇往還(松代道)を歩く➝神代宿
私が古いものを訪ね歩いて皆さんに読んで頂いていますが、実は皆さんに紹介できていない物があります。それはその土地に暮らしている方との交流です。逞しくその土地に根を張って生きている方々との交流こそ、この旅の醍醐味であります。
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橋を渡り切ったら右の旧街道を西に向かって歩きます。橋を真っすぐ行き跨線橋を越えて宿場へ行くこともできますが、旧街道を線路(信越線、現しなの鉄道)に架かる歩道橋を越えて街道を進みます。左手に「多賀神社」創建は不明ですが、由緒によると中尾村(神代村内)の住民が近江国犬上郡多賀村元官幣大社多賀神社の御分霊を奉斎し来ったと言い伝えられています。
参道の石段を上り鳥居をくぐると左手に北信濃に多い入母屋、宝塔型の庚申塔があります。この手の庚申塔は古いばかりでなく「石殿型庚申塔」と呼ばれ、石室上部と窓の両側に2鶏・2猿が彫まれ、猿田彦を中心とする光背型三尊石像が安置されていました。
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駅前に戻って散策、北側に島崎藤村の「破戒の碑」があります。藤村独特の癖字で書かれたここ「豊野停車場(とよのすてえしょん)」の件(くだり)が彫られています。
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南側には「流死人菩提碑・子育地蔵尊」が同じところに祀られています。菩提碑の裏側には水位が「満水此処マデ堪」と彫られています。戌の満水の時には松代藩だけで1200人以上が流されて死亡、遺体は多賀神社の丘に多数流れ着いたと言われます。お地蔵さんも地域の子供を優しく見守っていらっしゃいます。
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元の街道に戻って多賀神社の前を通り西に向かいます。この通りを「立町」といい、最終目的地「平出追分」へ向かう街道です。途中に飯山街道と交差する角に「道標」がありました。南面に「是ハ善光寺ミち」、東面に「これよりぜんくハうしみち」と刻まれています。北国街道新町宿で分岐した飯山道が神代宿で、先の御番所跡と筋違いで交錯しています。
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その御番所跡の碑と神代村道路元標が妙な取り合わせで彫られています。御番所跡はこの碑が建てられている筋向いがあるべき場所です。
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本来であれば直進すべきですが、ちょと飯山街道を見てみたいので右に曲がります。50mばかり行った所の両側に「本陣」「脇本陣」があったそうですが、位置を確定する目印も皆無でした。1kmほど行った所に「伊豆毛神社(いずも)」がありました。後柏原天皇大永二壬午年(1522年)春に、今の地に遷座され、古くから出雲宮とも伊豆毛大明神とも称された「延喜式」所載の古社であるといいます。社紋は珍しい「人形三線」で古書には「人神に物を奉ずる形」というらしい(画像はWebから拝借)。祭神は素盞嗚命・大己貴命(大国主命)ということから出雲族と関係があるかもしれません。伊豆毛は出雲ともいいますから。
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飯山街道から松代街道に戻る道すがら近くの「神代山柳原寺」に寄り道。本堂にお参りして参道の「五輪塔」や同じ供養塔の「宝篋印塔(ほうぎょういんとう)」に似た石塔を見ながら寺を後にしました。
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問屋跡を右に曲がると坂が少しずつきつく成ります。すぐ道は突き当り、左へカーブするところに長い石段が出現します。登り口には「馬頭観音」が並び、石段をちょっと上った所に「観音堂・大日堂」寺院の由緒書き。
街道の落ち葉掃きをしている方に、近所の見どころを聞きました(後で気付いたのですが観音堂の住職さんでした)
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住職さんに色々説明して頂きました。境内に祀られている「菅廼屋之祠」。裏山の「豊野層」のこと、寺院の裏山にある「石造三十三観音像」を見ていくといいなどアドバイスを頂きました。
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最後までお読み頂き有り難うございました。
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橋を渡り切ったら右の旧街道を西に向かって歩きます。橋を真っすぐ行き跨線橋を越えて宿場へ行くこともできますが、旧街道を線路(信越線、現しなの鉄道)に架かる歩道橋を越えて街道を進みます。左手に「多賀神社」創建は不明ですが、由緒によると中尾村(神代村内)の住民が近江国犬上郡多賀村元官幣大社多賀神社の御分霊を奉斎し来ったと言い伝えられています。
参道の石段を上り鳥居をくぐると左手に北信濃に多い入母屋、宝塔型の庚申塔があります。この手の庚申塔は古いばかりでなく「石殿型庚申塔」と呼ばれ、石室上部と窓の両側に2鶏・2猿が彫まれ、猿田彦を中心とする光背型三尊石像が安置されていました。
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駅前に戻って散策、北側に島崎藤村の「破戒の碑」があります。藤村独特の癖字で書かれたここ「豊野停車場(とよのすてえしょん)」の件(くだり)が彫られています。
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南側には「流死人菩提碑・子育地蔵尊」が同じところに祀られています。菩提碑の裏側には水位が「満水此処マデ堪」と彫られています。戌の満水の時には松代藩だけで1200人以上が流されて死亡、遺体は多賀神社の丘に多数流れ着いたと言われます。お地蔵さんも地域の子供を優しく見守っていらっしゃいます。
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元の街道に戻って多賀神社の前を通り西に向かいます。この通りを「立町」といい、最終目的地「平出追分」へ向かう街道です。途中に飯山街道と交差する角に「道標」がありました。南面に「是ハ善光寺ミち」、東面に「これよりぜんくハうしみち」と刻まれています。北国街道新町宿で分岐した飯山道が神代宿で、先の御番所跡と筋違いで交錯しています。
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その御番所跡の碑と神代村道路元標が妙な取り合わせで彫られています。御番所跡はこの碑が建てられている筋向いがあるべき場所です。
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本来であれば直進すべきですが、ちょと飯山街道を見てみたいので右に曲がります。50mばかり行った所の両側に「本陣」「脇本陣」があったそうですが、位置を確定する目印も皆無でした。1kmほど行った所に「伊豆毛神社(いずも)」がありました。後柏原天皇大永二壬午年(1522年)春に、今の地に遷座され、古くから出雲宮とも伊豆毛大明神とも称された「延喜式」所載の古社であるといいます。社紋は珍しい「人形三線」で古書には「人神に物を奉ずる形」というらしい(画像はWebから拝借)。祭神は素盞嗚命・大己貴命(大国主命)ということから出雲族と関係があるかもしれません。伊豆毛は出雲ともいいますから。
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飯山街道から松代街道に戻る道すがら近くの「神代山柳原寺」に寄り道。本堂にお参りして参道の「五輪塔」や同じ供養塔の「宝篋印塔(ほうぎょういんとう)」に似た石塔を見ながら寺を後にしました。
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問屋跡を右に曲がると坂が少しずつきつく成ります。すぐ道は突き当り、左へカーブするところに長い石段が出現します。登り口には「馬頭観音」が並び、石段をちょっと上った所に「観音堂・大日堂」寺院の由緒書き。
街道の落ち葉掃きをしている方に、近所の見どころを聞きました(後で気付いたのですが観音堂の住職さんでした)
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住職さんに色々説明して頂きました。境内に祀られている「菅廼屋之祠」。裏山の「豊野層」のこと、寺院の裏山にある「石造三十三観音像」を見ていくといいなどアドバイスを頂きました。
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最後までお読み頂き有り難うございました。
これは歩かないとお目にかかれないですね、スーッと車で通過したら、見られない、貴重なもの有難うございました。
こちらはしょうく さんのブログは見ておりますが、コメントできず心苦しく思っています。
私も、今まで車に毒されて見るべきものが見えないでいました。
チョット気が付くのが遅すぎました。