姨捨山人 さん
姨捨山人さんの投稿
上小便り 蚕都上田―①
そろそろ山人は冬眠期に入ります。今冬は近場を徘徊し、手の届く範囲のことを勝手気ままに書きます。春、冬眠から覚めましたら外歩きを再開したいと思っています。
明治5年官営富岡製糸所が創業して今年は150年の節目の年になります。翌年創業した長野県岡谷市の「片倉製糸紡織株式会社(現片倉工業)」が、民間に払い下げられた後、昭和14年片倉に合併。昭和62年に操業停止するまで最後のオーナーになりました。

以来片倉工業は富岡製糸所を「この由緒ある工場を永遠に存置せしむる為 ほかに委任すべきところなし」とし“売らない、貸さない、壊さない”という気持ちで、平成17年富岡市に寄贈するまで18年間、毎年億単位を投じて保存してきました。

明治の現存する製糸所は2014年(平成26年)「富岡製糸場と絹産業遺産群(伊勢崎市、藤岡市、下仁田町)」がユネスコ世界遺産に登録されました。

それを契機に、山形県鶴岡市、福島県伊達市梁川町、埼玉県深谷市・熊谷市、富山県富山市八尾町、愛知県豊橋市、京都府綾部市、長野県上田市などが嘗て「蚕都」言われ、注目されるようになりました。

ここ上田地域は、江戸期より蚕種(蚕の卵)で栄え、蚕種業のほかに養蚕、製糸、機織り、教育など他地域の単独業でなく総合的な発展を遂げて「蚕都上田」と呼ばれる一時代を築きました。
これから訪れる「旧常田館製糸所(現笠原工業)」のある「常田地区」は中山道の分岐北国街道が上田城下に踏み入る「踏入」地区にあたり、とりわけ地域を代表する蚕糸関連施設が集中しているところです。小県蚕業学校(現上田東高校)は日本初の養蚕専門校として、明治25年に開校しています。今でも名こそ変われど校章は「桑の葉」がデザインされています。


現存する日本唯一の繊維学部を置く「信州大学繊維学部」は明治政府にとって官立蚕糸専門学校として設立され、繊維分野において今や国際的な研究機関となっています。他にも、「上田蚕種」を始め、「依田社」(旧丸子地区)、上田紬工房も市内に点在し、上田地域が日本の近代化に果たした役割の大きさを物語っています。


お伺いした「笠原工業(旧常田館製糸所)」の見学コースの順路をうかがった後、門柱の塀に早速目に入ったのはこの旧施設が文部科学省の「重要文化財(重文)」、経済産業省の「近代化産業遺産」に指定されている事でした。


庭には「天皇皇后(現上皇、上皇后)」が御鑑賞された「枝垂れ桑」等が植えられていました。横の枝垂れ桑には季節外れの幼い桑の実も見られました。




見学の最初の建物は「鉄筋5階繭倉庫」。前の木造繭倉庫が焼失した為、防火に優れた鉄筋コンクリート(RC)を採用、同じ工法の「信濃毎日新聞本社」が取り壊され、大正期のこの倉庫が長野県一古い高層RC造りだそうです。

室内に入ると、団体様のプロジェクター用スクリ-ンがありましたが、一人では見せて頂けません。中央には今は知る人は皆無と言っていいほどの「猫瓦」が飾られていました。以前、岩鼻の唐猫の伝説を書かせて頂いた唐猫(上田地方では唐猫様)とはもともと舶来由来の猫のことです。
上田の一部の養蚕家の屋根に耳状の突起のある猫瓦(鬼瓦の代用?)に、雲の絵柄や水の文字があしらわれています。防火、ネズミ除けのおまじないの類でしょう。蚕やサナギ、繭までもあたりかまわずかじってしまうネズミ除けの為、猫を飼い、瓦に限らず猫神様の猫絵(新田猫:群馬県太田市)猫供養の石仏、像など(宮城県丸森町)も作られていました。

昭和天皇両陛下の行幸啓、上皇、上皇后の行幸啓。宮中の御養蚕所における皇后御親蚕に用いられる品種「小石丸」については、訳のわからぬことを書いたので整理の為、次回に回します。
明治5年官営富岡製糸所が創業して今年は150年の節目の年になります。翌年創業した長野県岡谷市の「片倉製糸紡織株式会社(現片倉工業)」が、民間に払い下げられた後、昭和14年片倉に合併。昭和62年に操業停止するまで最後のオーナーになりました。
以来片倉工業は富岡製糸所を「この由緒ある工場を永遠に存置せしむる為 ほかに委任すべきところなし」とし“売らない、貸さない、壊さない”という気持ちで、平成17年富岡市に寄贈するまで18年間、毎年億単位を投じて保存してきました。
明治の現存する製糸所は2014年(平成26年)「富岡製糸場と絹産業遺産群(伊勢崎市、藤岡市、下仁田町)」がユネスコ世界遺産に登録されました。
それを契機に、山形県鶴岡市、福島県伊達市梁川町、埼玉県深谷市・熊谷市、富山県富山市八尾町、愛知県豊橋市、京都府綾部市、長野県上田市などが嘗て「蚕都」言われ、注目されるようになりました。
ここ上田地域は、江戸期より蚕種(蚕の卵)で栄え、蚕種業のほかに養蚕、製糸、機織り、教育など他地域の単独業でなく総合的な発展を遂げて「蚕都上田」と呼ばれる一時代を築きました。
これから訪れる「旧常田館製糸所(現笠原工業)」のある「常田地区」は中山道の分岐北国街道が上田城下に踏み入る「踏入」地区にあたり、とりわけ地域を代表する蚕糸関連施設が集中しているところです。小県蚕業学校(現上田東高校)は日本初の養蚕専門校として、明治25年に開校しています。今でも名こそ変われど校章は「桑の葉」がデザインされています。
現存する日本唯一の繊維学部を置く「信州大学繊維学部」は明治政府にとって官立蚕糸専門学校として設立され、繊維分野において今や国際的な研究機関となっています。他にも、「上田蚕種」を始め、「依田社」(旧丸子地区)、上田紬工房も市内に点在し、上田地域が日本の近代化に果たした役割の大きさを物語っています。
お伺いした「笠原工業(旧常田館製糸所)」の見学コースの順路をうかがった後、門柱の塀に早速目に入ったのはこの旧施設が文部科学省の「重要文化財(重文)」、経済産業省の「近代化産業遺産」に指定されている事でした。
庭には「天皇皇后(現上皇、上皇后)」が御鑑賞された「枝垂れ桑」等が植えられていました。横の枝垂れ桑には季節外れの幼い桑の実も見られました。
見学の最初の建物は「鉄筋5階繭倉庫」。前の木造繭倉庫が焼失した為、防火に優れた鉄筋コンクリート(RC)を採用、同じ工法の「信濃毎日新聞本社」が取り壊され、大正期のこの倉庫が長野県一古い高層RC造りだそうです。
室内に入ると、団体様のプロジェクター用スクリ-ンがありましたが、一人では見せて頂けません。中央には今は知る人は皆無と言っていいほどの「猫瓦」が飾られていました。以前、岩鼻の唐猫の伝説を書かせて頂いた唐猫(上田地方では唐猫様)とはもともと舶来由来の猫のことです。
上田の一部の養蚕家の屋根に耳状の突起のある猫瓦(鬼瓦の代用?)に、雲の絵柄や水の文字があしらわれています。防火、ネズミ除けのおまじないの類でしょう。蚕やサナギ、繭までもあたりかまわずかじってしまうネズミ除けの為、猫を飼い、瓦に限らず猫神様の猫絵(新田猫:群馬県太田市)猫供養の石仏、像など(宮城県丸森町)も作られていました。
昭和天皇両陛下の行幸啓、上皇、上皇后の行幸啓。宮中の御養蚕所における皇后御親蚕に用いられる品種「小石丸」については、訳のわからぬことを書いたので整理の為、次回に回します。
イマイチピンとこないというのが正直な感想です。
でも織物と言う点で、富岡製糸場とか織物工場の工場内の風景とかには
興味があります。
お蚕さんでただ一つ思い出があるのは、小学校2年生のときに教室の後ろで
お蚕さんを20匹くらい飼っていました。繭になるまでの観察で桑の葉は
当番制で校庭の隅の桑の木から葉っぱを採ってきてあげてましたね。
そして5~6人が成長過程を絵にして壁面に貼りました。
その5~6人の中に私も入っていて画用紙と違う大きな紙に戸惑いながら描いた
記憶がうっすらとあります(^▽^笑)
こんばんは!
特殊なブログで皆様にご迷惑をかけますが、不定期ながら続けたいと思います。化学繊維と違って環境を汚すこともない繊維です。
学校でも理科の科目でカイコに限らず動物を飼っていた経験は皆さんおありだと思います。私が物心つく頃は家でも養蚕をしていました。幼い頃の蚕さんの経験もブログにご迷惑でしょうが載せたいと思っています。