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諒観さんの投稿

田舎教師 田山花袋

諒観さん
諒観 さんのブログ
2017.8.12 13:44
  十五のつづき


 次の土曜日には、羽生の小学校に朝から講習会があった。校長と大島と関と清三と四人して出かけることになる。大きな講堂には、近在の小学校の校長やら訓導やらが大勢集まって、浦和の師範から来た肥った赤いネクタイの教授が、児童心理学の初歩の講演をしたり、尋常一年生の実地教授をしてみせたりした。教員たちは数列に並んで鳴りを静めて謹聴きんちょうしている。志多見したみという所の校長は県の教育界でも有名な老教員だが、銀のような白い髯ひげをなでながら、切口上きりこうじょうで、義務とでも思っているような質問をした。肥った教授は顔に微笑をたたえて、一々ていねいにその質問に答える。十一時近く、それがすむと、今度は郁治の父親や水谷というむずかしいので評判な郡視学が、教授法についての意見やら、教員の心得についての演説やらをした。梅雨つゆは二三日前からあがって、暑い日影ひかげはキラキラと校庭に照りつけた。扇の音がパタパタとそこにも、ここにも聞こえる。女教員の白地に菫色すみれいろの袴が眼にたって、額には汗が見えた。成願寺の森の中の蘆荻ろてきはもう人の肩を没するほどに高くなって、剖葦よしきりが時を得顔えがおにかしましく鳴く。
 講習会の終わったのはもう十二時に近かった。詰襟つめえりの服を着けた、白縞しろじまの袴に透綾すきやの羽織を着たさまざまの教員連が、校庭から門の方へぞろぞろ出て行く。校庭には有志の寄付した標本用の樹木や草花がその名と寄付者の名とを記した札をつけられて疎まばらに植えられてある。石榴ざくろの花が火の燃えるように赤く咲いているのが誰の眼にもついた。木には黄楊つげ、椎しい、檜ひのき、花には石竹、朝顔、遊蝶花ゆうちょうか、萩はぎ、女郎花おみなえしなどがあった。寺の林には蝉が鳴いた。
「湯屋で、一日遊ぶようなところができたって言うじゃありませんか、林さん、行ってみましたか」校門を出る時、校長はこう言った。
「そうですねえ、広告があっちこっちに張ってありましたねえ、何か浪花節なにわぶしがあるって言うじゃありませんか」
 大島さんも言った。
 上町かみまちの鶴の湯にそういう催もよおしがあるのを清三も聞いて知っていた。夏の間、二階を明けっ放して、一日湯にはいったり昼寝でもしたりして遊んで行かれるようにしてある。氷も菓子も麦酒びいるも饂飩うどんも売る。ちょっとした昼飯ぐらいは食わせる準備したくもできている。浪花節も昼一度夜一度あるという。この二三日梅雨つゆがあがって暑くなったので非常に客があると聞いた。主僧は昨日出かけて半日遊んで来て、
「どうせ、田舎のことだから、ろくなことはできはしないけれど、ちょっと遊びに行くにはいい。貞公ていこう、うまい金儲かねもうけを考えたもんだ」と前の地主に話していた。
「どうです、林さんに一つ案内してもらおうじゃありませんか。ちょうど昼時分で、腹も空すいている……」
 校長はこう言って同僚を誘った。みんな賛成した。
 上町かみまちの鶴の湯はにぎやかであった。赤いメリンスの帯をしめた田舎娘が出たりはいったりした。あっちこっちから贈おくったビラがいっぱいに下げてあって、貞ていさんへという大きな字がそこにもここにも見えた。氷見世こおりみせには客が七八人もいて、この家のかみさんが襷たすきをかけて、汗をだらだら流して、せっせと氷をかいている。
 先生たちは二階に通った。幸いにして客はまだ多くなかった。近在の婆さんづれが一組、温泉にでも来たつもりで、ゆもじ一つになって、別の室へやにごろごろしていた。八畳の広間には、まんなかに浪花節を語る高座こうざができていて、そこにも紙や布ぬののビラがヒラヒラなびいた。室は風通しがよかった。奥の四畳半の畳は汚ないが、青田が見通しになっているので、四人はそこに陣取った。
 一風呂はいって、汗を流して来るころには、午飯ひるめしの支度がもうできていた。赤い襷たすきをかけた家うちの娘が茶湯台ちゃぶだいを運んで来た。肴さかなはナマリブシの固い煮付けと胡瓜きゅうりもみと鶏卵にささげの汁とであった。しかし人々にとっては、これでも結構なご馳走であった。校長は洋服の上衣もチョッキもネクタイもすっかり取って汚れ目の見える肌襦袢はだじゅばん一つになって、さも心地のよさそうな様子であぐらをかいていたが、
「みんな平たいらに、あぐらをかきたまえ。関君、どうです、服で窮屈きゅうくつにしていてはしかたがない」こう言って笑って、「私が一つビールを奢おごりましょう。たまには愉快に話すのもようござんすから」
 やがてビールが命ぜられる。
「姐ねえさん、氷をブッカキにして持って来てくださいな」
 娘はかしこまって下りて行く。校長が関さんのコップにつごうとすると、かれは手でコップの蓋ふたをした。
「一杯飲みたまえ、一杯ぐらい飲んだってどうもなりやしないから」
「いいえ。もうほんとうにたくさんです。酒を飲むと、あとが苦しくって……」
 とコップをわきにやる。
「関君はほんとうにだめですよ」
 と、言って、大島さんはなみなみとついだ自分の麦酒びいるを一呼吸いきに飲む。
「弱卒じゃくそつは困りますな」
 こう言って校長は自分のになみなみと注ついだ。泡が山をなして溢こぼれかけるので、あわてて口をつけて吸った。娘がそこにブッカキを丼どんぶりに入れて持って来た。みんなが一つずつ手でつまんで麦酒びいるの中に入れる。酒を飲まぬ関さんも大きいのを一つ取って、口の中にほおばる。やがて校長の顔も大島さんの顔もみごとに赤くなる。
「講習会なんてだめなものですな」
 校長の気焔きえんがそろそろ出始めた。
 大島さんがこれに相槌あいづちをうった。各小学校の評判や年功加俸ねんこうかほうの話などが出る。郡視学の融通ゆうづうのきかない失策談が一座を笑わせた。けれど清三にとっては、これらの物語は耳にも心にも遠かった。年齢としが違うからとはいえ、こうした境遇にこうして安んじている人々の気が知れなかった。かれは将来の希望にのみ生きている快活な友だちと、これらの人たちとの間に横たわっている大きな溝みぞを考えてみた。
「まごまごしていれば、自分もこうなってしまうんだ!」
 この考えはすでにいく度となくかれの頭を悩ました。これを考えると、いつも胸が痛くなる。いてもたってもいられないような気がする。小さい家庭の係累けいるいなどのためにこの若い燃ゆる心を犠牲にするには忍びないと思う。この間も郁治と論じた。「えらい人はえらくなるがいい。世の中には百姓もあれば、郵便脚夫もある。巡査もあれば下駄の歯入はいれ屋もある。えらくならんから生きていられないということはない。人生はわれわれの考えているようなせっぱつまったものではない。もっと楽に平和に渡って行かれるものだ。うそと思うなら、世の中を見たまえ。世の中を……」こう言って清三は友の巧名心を駁ばくした。けれどその言葉の陰にはまるでこれと正反対の心がかくれていた。それだけかれは激していた。かれは泣きたかった。
 それを今思い出した。「自分も世の中の多くの人のように、暢気のんきなことを言って暮らして行くようになるのか」と思って、校長の平凡な赤い顔を見た。
 つい麦酒びいるを五六杯あおった。
 青い田の中を蝙蝠傘こうもりがさをさした人が通る、それは町の裏通りで、そこには路にそって里川が流れ、川楊かわやなぎがこんもり茂っている。森には蝉せみの鳴き声が喧かまびすしく聞こえた。
 一時間たつと、三人はみんな倒れてしまった。校長は肱枕ひじまくらをして足を縮めて鼾いびきをかいているし、大島さんは仰向あおむけに胸を露あらわに足をのばしているし、清三は赤い顔をして頭を畳につけていた。独ひとり関さんは退屈そうに、次の広間に行ってビラなどを見た。
 三時過ぎに、清三が寺に帰って来ると、荻生君は風通かぜとおしのよい本堂の板敷きに心地よさそうに昼寝をしている。
 午後の日影に剖葦よしきりがしきりに鳴いた。
あかつきhanatori 2人がいいねと言っています
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