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しょうくさんの投稿

竜馬遭難・・・・

しょうくさん
しょうく さんのブログ[カテゴリ:しょうくの鶏肋日記
2017.11.15 8:02
11月15日(水)
 今朝窓際温度計は、14℃、湿度66%、はれ、ややつめたいあさ。今朝の話題、慶応3年11月15日、龍馬は宿にしていた京都河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいた。当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などの訪問を受けている。午後8時頃、龍馬と中岡が話していたところ、十津川郷士と名乗る男達数人が来訪し面会を求めて来た。従僕の藤吉が取り次いだところで、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋に押し入った。龍馬達は帯刀しておらず、龍馬はまず額を深く斬られ、その他数か所を斬られて、ほとんど即死に近い形で殺害された享年33(満31歳没)。旧暦の11月15日だから、新暦だったら1867年12月10日などという人もいるが、やはり竜馬の命日は、11月15日で考えるのが良いような気がする。
 京都まで行くのは難しいとして、今日は竜馬の妻であった、お龍さんゆかりの、横須賀大津の話にしましょう。

 郵便ポストの上に、龍馬とお龍さんの胸像❔、実はこの大津というところ、お龍さんお墓がある,信楽寺、正確に云うと宮谷山至心院信楽寺、浄土宗のお寺。龍馬の暗殺後は大変苦労し、各地を流転の後に大道商人・西村松兵衛と再婚して西村ツルを名乗り、横須賀に住んでいた、そして、明治39年1月15日に横須賀で亡くなっている。

 駅前の小公園には、こんな看板も出ている。大津の町は駅を出るとすぐに、竜馬とお竜さん一色になる。

 こんなのぼり旗が、あちこちでゆらゆらしている、地下のお竜さん苦笑しておられるか、それとも地元の方に感謝しておられるか。ツルというのは戸籍上の名で、どう呼ばれていたかははっきりしないが,信楽寺の墓標には、龍と書かれているし、多分そのように呼ぶのが普段の姿だったのではないでしょうか。

 お寺の入り口です、20年近く前、私がここを訪れたとき、門前の南無阿弥陀仏の石標のところに、お龍さんの墓標があったような記憶があります。

 現在は、本堂左側に、この墓標があります、お龍さんは、竜馬亡き後土佐の竜馬に実家に引き取られたりしたようですが、長続きはせず、京都へ戻り竜馬の墓守などした洋だが、西郷隆盛や勝海舟を頼り東京へ出て、援助を受けたりしたようだが、その後、明治7年(1874年)ころには、勝海舟または菅野覚兵衛の紹介で 神奈川宿の料亭・田中家で仲居として働いたりしたようです。

 墓標近くの説明板などごらんください、晩年は、ややアルコール中毒気味だったなどという話も残されています。
 石の墓標をよくご覧いただくと、何か気になりませんか?、正四位坂本龍馬之妻龍子之墓、とありますが、坂の文字が、阪となっているのにお気づきでしょうか、これにもいろいろ説があって、西村松兵衛の嫉妬心だなどという人もいます。
 墓を建てるにあたっては、おりしも、日露戦争勝利直後の、海軍さんの力あってこそのもの、海援隊など、龍馬に対する海軍のあと押し合ってこそというような話もあります。
 さて、龍馬とおりょうさんゆかりの話、まだまだ残りがいくつかありますから、あまり長くならないように、今日のところはこれまで。
トム信々亭ふぐのひれ酒知子彦左hanatorikatsu625cosi cosi 8人がいいねと言っています
コメント
かりんさん
かりん さんのコメント
2017.11.15 9:26
おはようございます。
坂本竜馬の暗殺のあらましは
大体存じていましたが妻お龍さんのその後については存じませんでした。
横須賀にお墓があったのですね。
0人がいいねと言っています


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