quay3535 さん
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残留孤児
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quay3535 さんのブログ[カテゴリ:戦争]2019.3.17 18:19
「日本語教室で教えてくれないか」って誘われた。
「誰が勉強してるのですか?」って聞くと「残留孤児です」って言う。
恥ずかしいけど、「残留孤児ってどこのですか」って聞いた。本当に無知だった。
「中国ですよ」って優しく教えてくれた。
『そんなこともしらないの?』っていう顔は微塵にもなかったから救われた。
・・・・
帰ってからパソコンで調べてみた。
満州、ソ連参戦、死の逃避行・・・悲惨な話がつきることなく出てくる。
なぜ、僕が「残留孤児」を知らなかったのだろうか?
戦後、残留孤児の問題は三十数年間も放置されたままだった。
日本と中国との国交が回復され、残留孤児調査団が初めて日本に来たのが1981年。
それ以後も何回か残留孤児調査団が日本に来て、多くの孤児が肉親と再会を果たした。
このニュースは覚えがあるが、うろ覚えに過ぎない。
言い訳になるが、僕は30代半ば。家に帰らない日も多く、ほとんど社会の話に関心がなかった。
近くに満州に関わりのある人がいないのもあって、僕は残留孤児について無知で今まで来た。
戦争はある程度、知っているつもりだった。
沖縄のチビチリガマにも入ったし、広島・長崎も訪れたことがある。
知覧は怖くて行ったことがないけど。
信条として「戦争は何があってもしてはならない」と強く思う。
それは理屈でなく、戦争で亡くなった方の怨念、遺言である。
と、同時にあの戦争はまだ終わっていないと思う。
今もなお苦しむ残留孤児の問題を学ぶことは、戦争の悲惨さを心に刻むことになる。
これから残留孤児を、満州を、勉強しようと思う。遅すぎるという時期はないから。
「誰が勉強してるのですか?」って聞くと「残留孤児です」って言う。
恥ずかしいけど、「残留孤児ってどこのですか」って聞いた。本当に無知だった。
「中国ですよ」って優しく教えてくれた。
『そんなこともしらないの?』っていう顔は微塵にもなかったから救われた。
・・・・
帰ってからパソコンで調べてみた。
満州、ソ連参戦、死の逃避行・・・悲惨な話がつきることなく出てくる。
なぜ、僕が「残留孤児」を知らなかったのだろうか?
戦後、残留孤児の問題は三十数年間も放置されたままだった。
日本と中国との国交が回復され、残留孤児調査団が初めて日本に来たのが1981年。
それ以後も何回か残留孤児調査団が日本に来て、多くの孤児が肉親と再会を果たした。
このニュースは覚えがあるが、うろ覚えに過ぎない。
言い訳になるが、僕は30代半ば。家に帰らない日も多く、ほとんど社会の話に関心がなかった。
近くに満州に関わりのある人がいないのもあって、僕は残留孤児について無知で今まで来た。
戦争はある程度、知っているつもりだった。
沖縄のチビチリガマにも入ったし、広島・長崎も訪れたことがある。
知覧は怖くて行ったことがないけど。
信条として「戦争は何があってもしてはならない」と強く思う。
それは理屈でなく、戦争で亡くなった方の怨念、遺言である。
と、同時にあの戦争はまだ終わっていないと思う。
今もなお苦しむ残留孤児の問題を学ぶことは、戦争の悲惨さを心に刻むことになる。
これから残留孤児を、満州を、勉強しようと思う。遅すぎるという時期はないから。
中国語しか話せませんでしたよ
日本に帰っていなかったら残留孤児です。
> 信条として「戦争は何があってもしてはならない」と強く思う。
大戦後アジアで戦争をしていないのは
日本とブータンだけです。
戦争は国と国の喧嘩
喧嘩は無くならないのと同じで戦争も無くならない
日本も朝鮮戦争で機雷の掃海をしている
機雷の掃海は戦争の参戦とされているので戦争をしたとも言われている
>うちの親は満州育ちで引揚げて日本に帰った頃は中国語しか話せませんでしたよ
きぃたんさんのご両親は、満州事変の前後、満州で誕生されたんですね。
ご祖父様は軍人か、会社関係で満州に住まれたんですね。
>日本に帰っていなかったら残留孤児です。
関東軍や会社関係の人の多くは、戦後の引き上げに間に合ったようです。
女・子供・老人だけの家族は、歩いての逃避行ですから、とても帰れず、多くの人が死んだ
り中国人の家に預けられたりして、日中国交回復まで30数年間も残留したのですね。
>雷の掃海は戦争の参戦とされているので戦争をしたとも言われている
戦争は一度、その方向に向かい始めると、その勢いを止めるのが難しいものです。もうすで にその道に向かい始めているように私は思い、憂いています。
なかなかぁ 戦争は終わってないですなぁ
これからですねぇ
うんうんっ
30年間中国で育てられた孤児たちは、日本に帰っても、その時は故国に帰って両親とか会えていいけど、日本語が分からないので、コミニケーションがとれず、働く場もなく、果てしない孤独に陥ります。30代以上で日本語を習得するのは並大抵でなく、簡単な挨拶などはできるけど、微妙な言葉の機微までは、理解できないようです。
残留孤児2世で有名な暴走族に多くいたのも、親が日本語がわからず、2世とコミニケーションがとれず、グレてしまったことが一因だと言われています。
今、孤児は70歳を超えている人がほとんどですが、中国語は流ちょうですが、日本語はたどたどしいのです。
小生小学校の頃 引き上げで帰ってきた方々がありました。
ひどすぎて、、余り話したたくないと言っておりました。
お隣国を通過するのは 特にひどかったと聞きました。
ただ 日本に居たことが有る方々は良くしてくれたそうです。
現在のお隣国の状況でも当時はご苦労だったと感じます。
>ひどすぎて、、余り話したたくないと言っておりました。
本当にそうなんです。すべての残留孤児が、そうなんです。だから語らないんですね。
広島・長崎・沖縄には語り部がいますが、満州は聞かないですね。
>お隣国を通過するのは 特にひどかったと聞きました。
それも本当のようです。中国残留孤児はいますけど、朝鮮残留孤児はいないのです。朝鮮の
国境を越えて逃避した孤児たちで、帰国者はいないようです。長年、植民地化された恨みつ
らみは、想像を超えていると思います。いまだに、徴用工、慰安婦ですから。
中国人は敵国であっても子供に罪はないと、引き取って養育した家は多かったようです。